勝手に放つ
私は【個】として強く社会に屹立し、同調圧力や不毛な付和雷同には一切動じたくない者である。自分の意見ははっきりと、大きな声で発言していく。ものすごく嫌われることもあるが、まったく問題ない。人間は全員、別人であり、私は私。好きも嫌いも人様の感情反応であり、他人事である。
個々の自由な反応を私は尊重する。嫌われたら悲しいが、自他の感情反応と己の思想は別物なので、混同しない。私は人様に好かれるための嘘をつかない。自分事と他人事の境界線を曖昧にしない。誰にも属さない。そんな私が社会や人々を考察すると、【個】が【集合】の中に問答無用に飲み込まれ、抑圧されているかのように見えて来る。
だからといって、「みんな、もっと【個】を大事にしよう、人様も集団環境もどうでもいいから、もっと自分勝手に自分を愛でよう」と、「みんな」に向かって声をかけ、煽動する気骨がさっぱりないのが、自分本位な私の真骨頂である。
「みんな」、勝手にすればいい。人間は全員、別人だから、各々自分の好きな方法論で生きていけばいいし、私も勝手に生きていく。何より【個】の勝手を重んじる以上、【集合】を重んじたい【個】も尊重するべきであり、「ただの己の持論を根拠に他者を絡めとる干渉」こそを嫌う私の持論を、自ら覆すことは本末転倒以外の何ものでもない。
本コラムの目的は、自分という事例をもって社会の中に【個】を放つ、ただそれだけだ。そんな私をどう思うかは、私が決めることではない。人様がお決めになればいい。
共感全盛の時代、超がつくほど勝手に「私は、こう考える」と語るだけの私の書き方は、他者を「突き放す」一方で、寄り添う気配が一切ない。また、【私】というアイコンを利用して公開実験を行っているような節もあったので、お目汚しとなったようなら申し訳がない。楽しんでくださった方が一人でもいらっしゃれば光栄である。
当方は、気は強いのに神経が細く、態度はでかいのに小心者。しかしながら我慢強く、チャレンジングスピリットは人一倍あるという精神性を搭載している(と自覚している)。「こんな書き方したら怒られちゃうかも」とビビる一方、いつだって続く思考は「じゃあ、やめておこう」ではなく、「怒られるかどうか、確認してみよう」だ。
案の定、怒られてしょんぼりすると同時に、「やっぱり怒られた」とか「え、これは怒られないんだ、意外」とか、結果を体得することを喜びとする、エキサイティングな2年間を送らせて頂いた。無論、怒られたところで、後悔もしなければ己の自説も曲げない。その点、神経はだいぶ図太いかもしれない。先に神経が細いと書いたのは、一体誰だ。