読んでいて一番気になるのが、固有名詞の使い方のキツさだ。シャルロット・ゲンズブール、ポール・トーマス・アンダーソン、リバー・フェニックス、Weezerに、Oasis、斉藤和義……とサブカル男子のような固有名詞が作中で用いられている。「ひょっとすると村上春樹の影響なのか?」と勘ぐりたくなるが、その装飾があまり効果的には思えない。ジーンズメイトや、Right-onで売ってる著名なバンドTシャツを着ている中高生感……みたいな恥ずかしさで読みながら胸が苦しくなってしまう。
その恥ずかしい感じが、若者っぽさ、とも言える。このほかにも、若者的なリアリティは随所にあって、そこは素直に評価したい。たとえば気まずくなっている主人公と親友が久しぶりに再会するシーンだとか。その再会の場面ではお互い会話にならず、その場面が終わった後にケータイで連絡を取り合ってようやく和解に漕ぎ付ける、その会話もまた敬語でとてもぎこちない……この生々しさはとても良かった。
こうした恥ずかしい固有名詞群のなかで、リバー・フェニックスという早逝した俳優の名は、例外的にストーリーに対して暗示的な意味を持っている。ここからこのコラムは本書のものすごくネタバレになってしまうのだが、えーっと、この小説、終盤で親友は自殺します。そして、重要なのは、親友自殺後の展開である。
主人公は自殺した親友の最大の理解者としてノンフィクション的な本を執筆し、ベストセラー作家となり、さらには俳優としても注目を浴びる。さらに主人公は、主演兼原作者として死んだ親友の伝記映画の製作に乗り出すのである。
多くの読者が、この主人公の行為をある種の供養であり、青春小説のハッピーエンドに向かう助走と予想したと思う。しかし、この予想を作者は思いっきり裏切ってくる。主人公は、親友の生涯を演じながら、取り憑かれたように死者の思考をトレースする。その死に隠されたいくつかの謎を解いていくうちに死者の役にハマり、最後には、かつて嫉妬によって切り離されていた主人公と親友の思考は一体化し、あろうことか主人公までもが死の淵に立たされるのだ。
この怒涛の終盤では、視点の境界線が曖昧になっていき、それが親友の出来事なのか、それとも主人公が映画のなかで演じていることなのか判然としない。その曖昧な境界線が、主人公の狂気じみた役へのハマりかたをうまく表現しているようで、ほとんどサイコスリラーになっている。ちょうど映画『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー監督)におけるナタリー・ポートマン的な怖さだ。
恥ずかしさ満載の青春小説が、突如として異世界へと流れ込む『ピンクとグレー』。加藤シゲアキは、ひょっとしたらものすごい作家なのかもしれない。デビュー作でのこの才能の片鱗が、次作ではどのように広がっていくのかを連載第2回では追っていこう。
■カエターノ・武野・コインブラ/80年代生まれ。福島県出身のライター。Twitter:@CaetanoTCoimbra
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