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キレるのは「温厚なパパ」ではない! 大きくなりがちな主語の話

【この記事のキーワード】

 筆者は「パパにとって食事の時間は、唯一のストレス解消の時間とも言えるものでした」「パパは子供の栄養や成長を心配して怒鳴ったというわけではなく、とても単純な言い方をしてしまえば、自分の楽しみの時間を奪われるのが我慢ならなくて怒鳴った」「多くのママは~『やっぱり男の人は子供っぽいのね』『自分の楽しみがなくなったからって、子供に怒鳴るなんて最低!』と思ってしまうことでしょう」と書き連ねます。しかしそれは「パパ」ではなく「私(筆者)」が主語でなくてはいけないものです。

 また「パパは子供のために怒っているのではなく、自分のために怒っている。そのことをママは理解しておくことが必要」と書いていますが、これは「パパである筆者」の開き直りに過ぎません。たびたび耳にする「ママがパパを教育してあげる」ことをパパ側である筆者が書いているわけですが、そこは自身の振る舞いを反省して、態度を改めるべき点なのではないでしょうか? なぜママに負担を強いるのでしょう。

 もちろん家庭にはそれぞれの関係性があるわけで、赤の他人である私が詳しい事情も知らずに筆者を叩くのは間違いなのかもしれません。しかし、これらを「パパ」全般に適用している点については、はっきりと批判しなくてはいけないと思うのです。なぜならこのような主語を取り違えた記事は、「ママvsパパ」ひいては「女vs男」という対立関係を強化してしまう可能性があるからです。

 この記事の内容を読んで、反感を覚えた読者が叩くべきは筆者であって「パパ」ではないでしょう。「これだから父親は~」ではなく、「この筆者は~」であるべきです。しかし読者が、筆者である石原氏を指しながらも「これだから父親は~」と批判したら、該当記事を知らない人からすれば「男叩き」をしているように見えてしまう。中には自分の振る舞いを省みるきっかけになるかもしれませんが、おそらく反感を覚える人が少なくないでしょう。そういう意味でこの記事は、無意味で非生産的な対立関係を煽っているわけです。

 自戒を込めつつ常々思うのですが、なにかを批判する際、主語が大きくなりがちです。「性別」「地域」「職業」「国籍」「世代」など、当事者がもつ複数の属性うち、特定のものにのみ注目した批判は、日常茶飯事で展開されます。属性によって一定の傾向がみられることもあるでしょう。統計データがそうした傾向をはっきり示すこともあります。しかし、中には根拠がまったくない、ただの俗説にすぎないものもある。そうした俗説をもとに「男は~」「女は~」と、無意味な批判を振り回してしまっている可能性があるわけです。

 最初に紹介した事件も、「これだから男は~」といった「男性」という属性に注目した批判がちらほらとみられます。自己弁護のために敢えて主語を大きくする人もいれば、批判の際につい主語を大きくしがちな人もいる。主語は慎重に選ばなくてはいけません。そして語られている内容の主語が、本当に適切なのかに注目することで、より意味のある議論が交わされるはずだと、私は思います。
(水谷ヨウ)

 

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