色んな形の家族があることを知る場として
しかしながら、こうした教育への批判には、“「特殊な家族」は語られるべきではない”、という隠れたメッセージが含まれてしまわないだろうか。
片親家庭や、非血縁家庭、あるいは貧困家庭などの多様化する家庭像を本当に受容するのであれば、「それが特殊な家族ではないこと」をむしろオープンに語っていくべきではないのか。また、なんらかの不健全性を抱えた家族に育った子供が、その不健全性に気づかないケースでは、こうした授業が自分の家族を客観視するきっかけにもなるかもしれない。たとえば、親から当然のように虐待を受けていて「これは普通のことなんだ」とか「私が悪いから罰を受けるんだ」と思い込まされている児童が、こうした授業をきっかけにして「普通のことではない!」「私が悪いのではない!」と気付くことも出来るかもしれない、ということだ。
そもそも、両者の批判はミスリードをはらんでいるようにも思われる。静岡新聞の記事は「里親家庭では、『親子の血縁関係がないこと』に触れられると、子供の成長に良くない影響がある」ような印象を与えるし(事実、告知は苦慮するものであろうが)、内田の批判は「配慮が足りない無神経な教師」を仮想敵としているようだが、果たして「こんな家族が正しい家族です!」と押し付けるような教師は果たして実在するのだろうか。
現場からのレポートを見ると……
ここで文教大学大学院准教授の森和子の論文「非血縁家族の中で育つ養子のための『生い立ちの授業』のあり方: 小学校教員への実態調査から」を見てみよう。ここで行われている20~50代の教員14名へのアンケート調査からは、「配慮が足りない」と批判される生い立ちの授業が実際どのように運用されているのかが浮かび上がる。
「生い立ちの授業のときに想定する家庭(児童)」という質問に対する回答は、母子家庭(13名)、父子家庭(8名)、ステップファミリー(3名)、里親家庭(1名)という結果になっている。ほとんどの教師が、血縁主義的な家庭だけを前提として授業をしているわけではない。これを読む限りでは「配慮が足りない無神経な教師」という仮想敵の非実在性がより高まるだろう。また、教員のなかからもこうした授業を「多様な家族のあり方を知るきっかけに」「多様な家庭を肯定できる」という声もあがっている。
この調査が行われたのは2011年。最近目につく「配慮が足りない」系の批判よりもずっと先に現場では「家族の多様化」を前提として授業への取り組みは動いているような印象だ。批判だけするよりもむしろ、そちらの変化を取り上げたほうが世の中のためになるのではないか、とも思う。
■カエターノ・武野・コインブラ/80年代生まれ。福島県出身のライター。Twitter:@CaetanoTCoimbra
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