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自傷少女が、高校中退してニューヨークに旅立って彼氏シックになって。

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傷の数だけ理由(ワケ)がある

傷の数だけ理由(ワケ)がある

唐突ですが東京って都会ですよね。山手線なんか電車が発進したら間髪入れず次の電車が来るじゃないですか。我が故郷・哀愁のチバラキは電車が一時間に一本程度だったので、山手線で駆け込み乗車をする人は一体どれだけお急ぎなのだろうといつも不思議に思います。

さて、前回までのあらすじ。全日制高校から通信に移り、ニューヨークに行くために英語学校に通いながらよもやの人生初彼氏ができたワタクシ戸村。その二カ月後、彼氏・ソラさん(仮名)を置いて、ついに憧れの地NYに飛び立ちました。

果たしてNYとはどんな所だったのか? 戸村は生き残ることができるのか? そして日本に置いてきたソラさんとの関係は? 今回はその前編、波瀾万丈のNYライフをお送りします。

予定ガン無視NY留学記

エージェントが見つけてくれた英語学校と大学は、正確にはNY州ではなく、隣のニュー・ジャージー州にありました。当初のプランでは、最初の二カ月はホームステイをしながら英語学校に通い、その後九月からNJの大学に行くことになっていたのですが、私はこのプランをガン無視してしまうことになります。

すでに「健忘」という「忘れてしまう症状」が出始めていた私は、成田からJFK空港までの13時間のフライトの間、心情をひたすらノートに書き綴っていました。二度と日本には帰らないつもりだったからこそ、その瞬間瞬間の気持ちを書き残しておきたいと思っていたのです。おかげでこうして、当時のことを振り返りながら連載を続けることができています。

空港でアメリカの大地に降り立ち、手配していたNJまでの送迎車に乗り込み、いざホームステイ先へ。その道程で、私のアメリカ留学の運命は決まりました。車がマンハッタンに入った瞬間、まさしく雷に打たれたような確信を抱いたのです。

「ここだ、私が来たかったのはここだ。私はこの街で生きていくんだ」

ブラに挟んだ25ドル

送迎車は、目的地であるNJへ。NJはビックリするほどのどかな田舎でした。さっきまで世界一有名な摩天楼を見ていたのに、このギャップは一体何だろう。そう思いつつも、ホームステイ先に挨拶を済ませ、日本にいる両親とソラさんに連絡をしました。そのときリビングのテレビではアニメ『ドラゴンボール」が流れており、英語をぺらぺらと話すクリリンに対し、つい「クリリンのくせに!」と嫉妬したことを覚えています。

午後5時頃にホームステイ先に着き、12時間後には英語学校に初登校というハードスケジュール。日本の学校でさんざっぱら「はみ出して」いた私ですが、日本の英語学校ではうまくやれておりましたし、不安はもちろんありましたが、やる気の方が勝っていたと思います。

母親ゆずりのおしゃべりっぷりが功を奏したのでしょうか、学校にはすぐに馴染めて、仲間もできました。世界各国から来た英語のレベルもバックグラウンドもバラバラの、聞いたこともないアクセントを持つ彼らと日々共に学ぶのは楽しかったです。

そんな英語学校の仲間とマンハッタンに行くことになりました。以前より治安が良くなっていたとはいえNY、しかもマンハッタン。私は財布をいくつかに分けて持った挙げ句、ブラに25ドル札を挟んで向かいます。

入国初日に、「この街で生きていく」と確信させたマンハッタンは、やはり運命の土地だったようです。「世界一有名なネオンサイン」ことタイムズスクエアをみても特に感動を覚えなかった私ですが、サブウェイでダウンタウンに向かい、地下からストリートに上がった瞬間に、マンハッタンへの愛情が爆発するのです。

そう、同じ島にあるというのに、それまで見てきた地域とは、明らかに空気が違う。通りすがりの車は大音量でレディオヘッドなどを流し、道行く若者達の格好もおしゃれ。

「やっぱり私が来たかったのは『ここ』だったんだ。そして高層ビル群なんかじゃなくて、ここなんだ!」

すでに漠然と予感は感じていた私の予定ガン無視留学は、このとき決定的になったのだと思います。ちなみに、ブラに挟んだ25ドル札は無事でしたが、汗でかなり湿っていました。

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戸村サキ

昭和生まれ、哀愁のチバラキ出身。十五歳で精神疾患を発症、それでもNYの大学に進学、帰国後入院。その後はアルバイトをしたりしなかったり、再び入院したりしつつ、現在は東京在住。

twitter:@sakitrack