また、保護者の立場に立って考えてみると、子どもと本気の喧嘩をして、うっかり啖呵を切ってしまい「勝手にしろ」と思ってもないことを言い外出を黙認した、という苦い経験を持つ親は少なくないのではないか。筆者も今ほどコンビニが全国あちこちに普及していなかった子供時代――小学生や中学生の頃に、親と喧嘩をして深夜に家出をしたことが数度ある。幸い、何の事件にも巻き込まれずに済み、頭を冷やしてから自宅に戻って謝ったが、精神的に困っている状態でフラフラしていたあの夜あのタイミングで、知らない大人に親切な口調で話しかけられたら、「普通の優しい人だ」と受け取ってしまっただろうし、喧嘩後で自暴自棄になっているので、何か悪い予感がしたとしても、誘いに乗っていた可能性は全否定できない。どんな理由であれ、子供にとって深夜に家にいないのは“特別”なことであり、その“特別”感から、気持ちも揺れやすい。筆者は単に運が良かっただけであり、犯人はこうした子どもの“特別”な外出、いつもと違う気持ちにつけ込んだのだ。
家は安住の地として機能するか
西東京市で昨年7月、中学2年生の男子生徒が自宅で死亡されるのが発見され、義父の男が逮捕された。義父は男子生徒に度重なる暴行や暴言を加え、自殺するように告げたのである。この男子生徒は事件前、夜中に家出をしているが、たまたま出会った警備員の男性に話を聞いてもらい、最終的に自宅に戻った。そして事件は起こったのである。また、男子生徒は学校に義父からの暴力を打ち明けていたが、学校の会議では「様子見」とされ児童相談所への通告を見送られていた。この事件の場合、家の外に出ていれば助かったかもしれない。家の中に危険が充満している家庭が日本には決して少なくない数存在し、そこにいるからこそ命を失ってしまう子どもたちもいるのだ。深夜徘徊している子どもたちに出くわせば、大人は「家に帰りなさい」と言うだろう。だが家の中が地獄だったとしたら、子どもたちは夜中、どこにも居場所がない。
子どもの深夜徘徊は家庭に何かしらの問題をはらんでいる可能性がある。しかも、学校や地域がうすうす異変に気づいていても見過ごされることがある。寝屋川市の事件でも、近隣住民が被害者の家族についてニュースで色々なコメントをしている。そうした近隣住民の証言が真実であるならば、何らかの問題がある家庭だと周囲が認識していたにもかかわらず、無視され続けていたということになる。深夜に家出しなくて良くなるよう、あるいは家出しても居場所を作ってあげられるよう、異常を感じた誰かが行政・福祉にはたらきかけることは出来なかったか。
子どもの深夜徘徊に対して単に“親の責任”と言うだけでは、本当の問題は解決されないままだ。なぜ子どもが家を出ようとしたのか、そこを考えなければ、深夜徘徊はなくならない。
家庭に問題があるとき、子どもは家の外に助けや息抜きを求めに行く。この場合、親も自分の家庭が問題を抱えていることを認識しているかもしれない。しかし家庭内のみで解決できないならば、親は外部に助けを求めることが必要だ。親がそうしないのならば、子どもが、そして子どももそうできないならば、異変に気づいた誰かが。なんでもかんでも“親の責任”で片付けるのではなく、子どもも親も、また近隣住民もSOSを発信でき、それが解決に活かされるような場所や機関の充実が、行政に求められているのではないか。
(高橋ユキ)
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