
(C)柴田英里
『ユリイカ9月号 特集・男の娘—“かわいい”ボクたちの現在』(青土社)を読みました。私も「ヘルマフロディトスの身体 ーオブジェとしての男の娘は如何にして誕生し、何を求めるのか」というタイトルで寄稿しています。
同号には二次元、三次元、当事者、研究者、様々な視点からの論考やインタビューが寄せられており、もりだくさんの内容で、改めて、日本はジェンダーギャップ指数においては世界104位という後進国ですが、セクシュアリティ表象においては先進国であり続けているなと思いました。
漫画やアニメの「男の娘」だけでなく、日本神話でヤマタノオロチを女装して倒したスサノオノミコトや、若衆歌舞伎・陰間茶屋(女形の格好をした男性が客をとる遊郭、初期は僧侶をはじめとした男性客中心であったが、女性客も利用できた)の文化を含めた歌舞伎の女形、シスターボーイやニューハーフ、ドラァグクイーン、性同一性障害(GID)におけるMtFないしMtXトランスジェンダー、インターセックス(両性具有)、女装家・女装屋・女装子・コスプレ女装などのクロスドレッサー、全て広義の意味では「男の娘」です。「男の娘」は、二次元三次元問わず時代により変容しながらも脈々と続く日本の文化であり、日本におけるセクシュアリティのひとつのあり方です。
最近、巷では「SHINEと書いて“シネ”と読むのか? というほど穴だらけな女性活用政策」や「データ改ざんされた高校生向け22歳出産適齢副教材」が“問題視されている”ことから見ても、ジェンダーへの意識が高まっているように思います。ですが、過渡期ゆえか、ジェンダーの問題とセクシュアリティの問題を混同しているような問題提起も多くあるように思います。
ジェンダーは、社会において文化的に位置づけられた性のあり様であり、セクシュアリティは個人の性のあり様です。社会において文化的に位置づけられた性による差別や搾取を許してはいけない一方で、個人の性のあり様はそれぞれ尊重されるべきであると私は考えます。
『アナと雪の女王』『ベイマックス』そして『マッドマックス』のような、誰もが楽しめる(誰も不快にならない)エンターテイメントは、作品としての面白さだけでなく、優秀なジェンダー表象としても日本で広く受け入れられました。
このこと自体は素晴らしいことですが、それは当然ながら、「どのような作品も、『アナと雪の女王』『ベイマックス』『マッドマックス』のようにあるべきだ」ということとイコールではありませんし、これらは、あくまでホモフォビアやミソジニーといったジェンダーやレイシズム(人種差別)の問題であり、ポリティカル・コレクトネスの問題であり、個人のセクシュアリティを描いた作品ではないことを念頭に置くべきでしょう。