是正すべきは差別であり、マイノリティではない
個人のセクシュアリティを尊重する表現が、それとは別のセクシュアリティを持つ人にとって快感にならない場合があることは、容易に想像することができます。であるからこそ、ゾーニングはされるべきですが、「誰かが不快に思うセクシュアリティの排除や差別」は行われてはなりません。2008年の大阪堺市立図書館でBL小説が撤去された事件など、ポリティカル・コレクトネスの名において被害者の存在しない特定のセクシュアリティ表現を規制しようとすることは、性差別・マイノリティ差別になり得るのです。
もう一例出すと、日本の春画には、「出産後の女性が自らの産んだ乳児を用いて自慰をする」という、「近親相姦×乳幼児への性的虐待ד母性”の欠如」というイリーガルかつアンモラルかつ全方位射撃で針のむしろになりそうなモチーフも少数ながらありました。もちろん、当時の日本人の倫理観でも、「実際に出産後の女性が自らの産んだ乳児を用いて自慰をする行為」はアウトであったと思いますし、実際にそのような性癖があったのかもわかりませんが、少なくとも「フィクションとして面白がれる」土壌はあったのでしょう。
それは、「良いセックスと悪いセックスチャート」(できるだけ快楽を得ず信頼した相手と確実に子供をつくりなさい、という主旨)を作るようなキリスト教の性の概念からはかけ離れていますし、当時の彼らの信じる「正しい性のあり方」の視点からは、「野蛮過ぎ、ありえない!」とドン引きされても仕方ないように思いますが、「出産後の女性が自らの産んだ乳児を用いて自慰をする春画」を「フィクションとして面白がれる」土壌は、大切にされるべきクィアな感性であり、西洋白人中心主義に回収されない日本の考え方であると思うのです。
バランス感覚が難しい問題ですが、誰もが楽しめる(誰も不快にならない)ジェンダーエンターテイメントと同様に、特定のセクシュアリティへの差別の禁止、そして西洋白人中心主義に回収されないクィアな感性の尊重といった観点から、特定のセクシュアリティを尊重した表現は尊重されるべきなのです。
『アナと雪の女王』『ベイマックス』そして『マッドマックス』のような、誰もが楽しめる(誰も不快にならない)エンターテイメントの根本にはキリスト教と、「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」「人種差別」「女性差別」への問題意識があります。簡単にいえば、保守的なキリスト教徒の権力を持った白人男性が理解でき、尊重でき、社会に包摂できる同性愛者、有色人種、女性たちが描かれているということです。