例えば、典型的なハーレムラノベの形態である『IS』に登場する少女たちは、全員主人公男性のことが好きかつ主人公への逆セクハラ(部屋への不法侵入や強制わいせつなど)も目立ちますが、女性同士の友情を育むシーンがかなり多く描写されています。コミュニケーション能力至上主義とは別の理念によって、各々才能や個性を伸ばし、緩く友情を育み共闘するライトノベルや美少女ゲームの少女たちの関係性は、私の理想とするフェミニズム・シスターフッド観とかなり近いのです。
男性向けの「美少女ゲーム」と、「少女漫画」には、同じ物事を別の角度から見た物語であるような類似性が多くありますが、後者のほうがより登場人物間のコミュニケーションに重きを置いた描かれ方をします。前者に特殊能力や魔法といった特別な才能を持つ少女たちが描かれるのに対して、後者の少女は、「普通さ」や「等身大」さが求められる傾向が強いです。
なぜ、少女漫画の少女たちに「空気を読む」ことや「相手の立場になって考える」といったコミュニケーション能力や、共感能力が求められるかというと、そうした能力こそが「女子力」や「ケア能力」といった、女性の役割とされがちな問題と地続きのものであり、また、それが評価されることは、異性愛社会の「モテ」だけではなく、女性同士のコミュニティにおいて「良い女性」であることの証明になるからです。
もちろん、不必要に謙遜したり悩んだりせず、自信を持って独立し、人間関係に悩まずに生きている(ように描かれている)ライトノベルや美少女ゲームの少女たちは、男性にとって面倒くさくなく都合が良い、ヘテロ男性の快楽原則に即した存在でもありますが、コミュニケーション能力が人物評価にほとんど影響しない、「良い人」であることが求められないラノベやゲーム世界の環境というのは、共感過剰ともいうべき現代を生きている者からすると、やはりとても魅力的なのです。
「フェミニスト=○○」「男性向け作品=△△」「オタク=□□」「腐女子=××」など、固定観念に捕われると、優れた作品を発見することや、楽しい誤読をする機会がおのずと減ります。それは、個人的にはとてももったいないことだと思います。
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