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フェミニズムのジレンマ「勝部元気さん、いい加減にして下さい」。

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(C)柴田英里

(C)柴田英里

 折に触れて、フェミニストって優しいなあと思います。世の中では、「フェミニスト=性格がキツいヒステリーな女」という負のイメージがまだまだ消えてはいませんが、実際のフェミニスト(性別問わず)は優しい方がすごく多い印象です。もちろん、理論や発表に対して厳しい指摘や意見を貰うことはよくありますが、フェミニズムが学問である以上、そんなことは当たり前で、むしろ、「一人一派」という言葉におんぶに抱っこ状態になり、誰も批判や意見を言わず、無条件の承認しかしない。というような状態の方が相当ヤバいのです。

 女性同士、フェミニスト同士の意見が対立することは、人間と人間、個人と個人、男性と男性の意見がしばしば対立することと同様、必然的に起こり得ることですし、また、人間一人一人が異なる感性や価値観、イデオロギーを持っているのですから、いかなるときも全く意見が不一致にならないことなどありえないのです。

 にもかかわらず、対立する者たちが女性同士である場合、不当に「女同士の戦い」「フェミニストが女を攻撃している」などという煽りがどこからともなく沸いてくることがあります。他者の発言や理論を批判することと、他者を誹謗中傷することは違いますし、どちらに対しても、私たちが一人の人間である以上、傷つくことはありますが、批判と誹謗中傷を混同すること自体がおかしなことですし、「誰も傷つけたくないから意見があっても言わない」などという状況は学問としておかしなことです。「STAP細胞はないかもしれないけど、それを言ったら研究している人がかわいそうだから、同じ研究者として何も言わないで信じてあげよう」なんて理屈が世の中で通らないことと同様に、「女性同士」「フェミニスト同士」だから、意見をするのはやめよう。ということはおかしなことです。

 人に意見をすること、不当だと思うことについて怒ること、自分の権利を主張すること、これらは女性やマイノリティが歴史的に抑圧されてきたことであり、人間だれもが持っている権利です。そして、フェミニズムやジェンダースタディーズの歴史は、これらの人間の権利を獲得していく歴史でした。

 マジョリティではない性別・セクシュアリティを持つ者が「怒る権利」は、選挙権や財産所有権などと同様に、はじめから当たり前に持っていたものではないのです。

 女性同士、フェミニスト同士が議論し、時には批判することは、フェミニズム・ジェンダースタディーズが獲得してきた財産であり、人間が持っている当たり前の権利なのです。

 もちろん、批判と誹謗中傷は違いますし、他者を誹謗中傷することだって言論の自由としてありますが、相応のリスクや責任が伴います(責任が伴わない発言自体がないのですが)。自分と異なる思想があることは、どのような学問・どのような政治・どのような環境であっても当たり前であり、それに対して議論や批判が起こることは当然のことなのです。対立することが悪いのではなく、「俺と異なる意見のヤツは消えろ/異なる意見そのものを消してやる!」という思考が、『ドラえもん』の「独裁者スイッチ」の結末の例を出すまでもなく問題なのです(控えめに言っても、「自分と異なる意見そのものを消す」などというものは学問でないことは確かです)。

 さて、最近インターネット上では、表現規制にまつわる問題で、「ラブフェミニズム」という独自のフェミニズム(フェミニズムは運動であると同時に思想体系であり理論であるので、オリジナリティの塊である勝部さんの主張を「フェミニズム」と言ってよいのかは議論が必要なところですが)を提唱されている勝部元気さんが話題です(というか、炎上しています)。

 9月11日、勝部元気さんはTwitter上で、映画『MAD MAX4(マッドマックス 怒りのデス・ロード)』に、著名なフェミニストであるイヴ・エンスラーがコンサルタントとして関わった話を引き合いに出して以下のツイートを投稿しました。

「度々炎上するCMに関してもそうだけれども、リアリストなフェミニズムの専門家たちによって構成された第三者機関がチェックする流れを、ある程度社会的スタンダードにしたほうが良いと思うんですよね」

 CMや映画の制作者のオファーによって、アクション映画の演技指導や監修に格闘家が携わることや、SF映画で宇宙科学や物理学の専門家をコンサルタントとして起用することと同様に、映画のクオリティ向上のために監修や助言などをフェミニストに頼むのであれば何の問題もないことですが、「専門機関を作ってチェックする流れをある程度社会的スタンダードにする」という発想は、検閲や言論統制などの観点から見て端的に危険すぎます。

 完成し流通した作品の差別的な表現や不適切な表現について様々な立場の人が議論することは有益ですが、特定のイデオロギーを持った集団が事前検閲を行うことを推奨することが有益であるとは思えません。そうした発想には、「そこにいかにも権力があるかのような」機関が権力に利用される/権力化することへの想像力が欠如していますし、「誰の」「どんな」フェミニズムスタディーズを基礎にするのかという問題が出ます。

 ガイドラインを設けるに際して特定のフェミニズムスタディーズが権力化することも問題ですし、「特定のガイドラインを設けずその都度審議」という形式はさらに問題です。特定の人物たちの趣味判断を権力化することになりかねないからです。

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柴田英里

現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。現在、様々なマイノリティーの為のアートイベント「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」の映像・記録誌をつくるためにCAMPFIREにてクラウドファンディングを実施中。

@erishibata

「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」