今年の8月29・30日、鳥取県米子市で開催された「日本SF」大会に参加しました。私は前年に発表された作品の中から、ジェンダースタディーズ的な観点から見てもっとも素晴らしい作品を決定する、センス・オブ・ジェンダー賞の選考委員を務めたためです(今年度の受賞作は、大賞に乃木坂太郎『幽麗塔』(小学館)、少子化対策特別賞に村田沙耶香の『殺人出産』(講談社)、人工知能特別賞に西UKO『となりのロボット』(秋田書店)が選ばれました。今回の記事とは関係ありませんが、どれも素晴らしい作品です)。
SF大会の会場で、初めて、「痛キモノ」という着物を見て、鮮やかでとても素敵だと思いました。痛キモノと同様の文化に、言わずと知れた「痛車」がありますが、「痛車」の文化には、いかに良い車(スポーツカーなどの高級車)をオタク的感性によって「イタ」くできるか、という、一種の自虐的な感性によって自らを誇る、マゾヒスティックなマッチョイズムが隠れているように思います。では、「痛キモノ」の文化が浸透したら、どのような感性の世界が広がるのか、興味津々です。貴腐人や萌え好き女性が己の好きなキャラ・好きなシーンの描かれた着物を身にまとい、「この季節にそのシーンの着物を選ばれるなんて流石だわ」とか「そのキャラの着物にこのキャラの帯を合わせるなんて、良いカップリングね」なんて誉め合う光景を想像するとワクワクします。
「痛キモノ」というのは、日本の古典的な着物文化とも、案外相性が良いように思います。
まず、ボディラインを立体的に美しく魅せる西洋のドレスと、膨らんだ胸を抑えくびれたウエストを詰め物で膨らませ、「茶筒」のような凹凸がなく平面的なボディラインを作り出す着物では、そもそもの美意識が違います。
着物の世界では、昔から、良い着物を表す言葉として、「柄が立つ」という表現があるのですが、「柄が立つ」とは、着物の柄が、着物を着た人の身体から浮き出て見えるようにくっきりと鮮やかに見える様を表します。つまり、身体そのものを平面的に、キャンバスのように見立て、そこから柄が浮かび上がるような様を「良いもの」として扱っているのです。
これは、紳士服・婦人服の差異が大きく、男女二元論的な身体誇張と美意識によって作られてきた歴史のある西洋の「洋服」にはない視点です。
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