曲がりなりにも東京に住んでいるので近所にはカフェが多いです。越してきてからほどなくして、ものを書く時はカフェが一番はかどるようになりました。自宅ですと色々と誘惑やら家事やら怠惰やらがそれはもう物凄い勢いで襲ってきますので、今日もPCと共にカフェにおります、戸村です。
前回は、知人に紹介されたコミュニティで痛い目に遭ったこと、人生初彼氏ソラさん(仮名)と別れたこと、そして家庭の事情で一人暮らしを始めたところまで書きました。
しばらくニートした後、カフェでのバイトが決まりました。ただ、そこの制服は半袖で自傷痕が丸見え。医者の言葉がきっかけで、以前ほど執拗に左腕の傷痕を隠してはいませんでしたが、バイトも立派な仕事です。何か言われるだろうか、言われなくても色々思われるのだろうな、と思いつつ働き始めました。
業務は普通のウエイトレス業です。メニューを覚え、オーダーを取り、片付けを学び、余裕ができたらキッチンも手伝う、そんな感じでした。割と古めのカフェ、カフェというか「喫茶」と漢字で書いた方が似合うような小さな店で、常連さんも多く、チェーン店のような厳しさのない、アットホームなお店だなぁ勤め始めた頃は思いました。
同僚は、私の母よりも少し若いくらいの、自分の美学を持った中年の女性マネージャーと、倖田來未が好きで、音楽の趣味はあわないけれど少しずつ話のできるようになった年の近い女子でした。メンタルが厄介なだけでなく、実は自律神経もちょっと面倒な体質で、長時間の立ち仕事ができない私に対し、二人は、「ヒマな時は座ってていいよ」とキッチンの隅に椅子を置いてくれました。
私の自傷痕は、左腕の前腕全体にあります。同僚にはもちろん、お客さんにもバッチリ見えてしまいます。何度か、ドリンクをテーブルに置く時にお客さんがぎょっとしたり、私が下がってから何かひそひそと言われることがありました。まあ、想定の範囲内です。
そんな私に対して同僚の二名がどうだったかというと、マネージャーからはそこはかとなく誘導尋問じみたことされましたが、それには乗らずにいました。同僚女子はしばらくしてから、「前から気になってたんだけど、それ、どうしたの」と、おずおずと聞いてきました。
「いやあ、昔病んでたんで、若気の至りっすね~」
努めて明るい口調で私は返しました。彼女はその後、オフの日も私を遊びに誘ってくれるようになって、「折角仲良くなれたんだから、何かあったら言ってね」と言ってくれたのですが、私は自分の病気のことや自傷について、彼女に自ら話すつもりはありませんでした。この時期、私は結構な人間不信に陥っていました。前回書いた通り、某コミュニティで自傷痕があることを知られ、サイコパス認定された事件を引きずっていたのです。
「いくら優しい言葉をかけられたって、実際私が自傷したり発作を起こしたらみんな逃げていくんだ」
そんな、少々強迫観念じみた考えに支配されていました。
アキレス腱をきったらバイトに行かなくてすむ
仕事を覚えていくうちに、アットホームなお店のようで、実はマネージャーと同僚女子が水面下で対立していることに気がつきます。二人が表立って直接言い合うことはありませんでしたが、私はふたりの板挟み状態になってしまい、マネージャーと二人で店を回す日は同僚女子に関する愚痴を聞かされ、同僚女子と入る時はマネージャーへの文句を聞く、そんなストレスフルな状態になってしまいました。
仕事のやり方ひとつとっても、両者は各々の処理法が違ったりもしました。マネージャーはここにゴミ箱を置く、同僚女子はあっちに置く、マネージャーは伝票をここにまとめる、同僚女子はあそこにまとめる……といった具合で、私は両方のやり方を覚えて使い分ける必要があり、またそれぞれの陰口を聞くのにも疲れてきました。
なんとなく「バイト行きたくないなぁ」と思う日が増えるようになりました。また、昼夜転倒していた関係で寝坊してしまい、「夕方からの勤務なんだから、寝坊なんてありえない」とマネージャーには厳しく叱られました。
ある日、私がアパートでぼんやりしていると、父が災害対策にと置いていった折りたたみ式のノコギリが目に入りました。木造アパートだったので、いざという時はこれでドアを開けろと言われたものです。
「これでアキレス腱を切ったら今日バイト行かなくて済むなぁ」
茫洋とそんなことを考えました。しばし真剣にこの案を吟味したのですが、「いやいや、仕事なんだから行けよ」、「たかがバイトのために足首をダメにするなよ」という理性の声で我に返りました。
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