西野カナの2015年第2弾シングル、『トリセツ』のMVを視聴しました。
MVは、取扱説明書のようなものを手にした西野カナが壇上で、「この度は こんな私を選んでくれてどうもありがとう ご使用の前にこの取り扱い説明書をよく読んで ずっと正しく優しく扱ってね 一点ものにつき返品交換は受け付けません ご了承下さい」と歌にして読み上げるところから始まります。舞台には、女性がずらりと並んでおり、客席にはその女性たちの恋人と思われる男性たちが座っているのですが、曲が進むごと個々にピックアップされていく舞台の女性たちとは対称的に、客席の男性たちは後ろ姿しか映されません。
これだけで、少し前に炎上したブレンディのCMのような居心地の悪さや、もしくは、世にも奇妙な物語的なブラックユーモアの感性が感じられます。
女性=家電製品のようなモノであるとした世界観の作品であるとしても、製品にばかりスポットが当たり、消費者(家電購入者)の顔がさっぱり見えてきませんし、歌詞では最初に「一点ものにつき返品交換は受け付けません」と言いつつ、サビの部分では「永久保障の私だから」と矛盾した見解が述べられます。
永久保障とうたわれる商品を購入した場合、普通は不良品の交換や修理の対応が約束されていますし、永久保障と言いつつ「あなたしか直せないから」と購入者自身の修理を促すような製造販売者の対応は、詐欺としか言いようがありません。当たり前ですが、家電製品には取り扱い説明書通りに扱っても壊れることも、最初から壊れている不良品もあるからです。
そもそも、故障したら自分で修理しなければならず、返品交換や修理サービスも利用出来ず、あまつさえ捨てることすら出来ない商品自体、便利な家電製品というよりも、RPGに出てくる呪いのアイテムです。
歌詞は「女性の気持ちを取り扱い説明書に例えて書いたもの」と公式では言われていますが、この曲の中で家電製品のお披露目会のようなスタイルで発表される「女性の気持ち」は、「こうしてほしい」「それはされたくない」といった相手に求める要求ばかりで、「トリセツ(取り扱い説明書)」というにはあまりにも高圧的です。
この曲の歌詞に対して、「女の子の気持ちをわかっている」「超共感する」、「女性はモノじゃない」「トリセツと言うより、女性側の要求ばかりじゃないか」という、賛否両論が巻き起こっています。これは、「女性をモノに例えることの単純な是非」「女性=モノと仮定し、それを全肯定するような見解の、ジェンダースタディーズ的観点からの居心地が悪さ」ではなく、自らを「モノ・商品」として扱う女性が、購入者(恋人)にモノを捨てる自由も壊す自由も与えない、ある意味「モノによる人の支配」が描かれることに対する違和感ではないでしょうか。
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