ずっと「オシャレ」な渡辺満里奈
凡庸な『なんクリ』っぽさは、冒頭に収録されている中編小説「新しい気持ち」でも同様だ。この小説、2年以上付き合っていた彼氏とのあいだにマンネリが訪れて別れてしまった女の子が、やっぱり彼氏が忘れられなくてズルズルと連絡取り続けていて「この微妙な関係ってなんだろう、彼氏はどう思ってるんだろう」と思い悩むと同時に、自分の夢(知らない国を見てみたい)の実現に向かって歩み続けたい……どうしよう……? といったしょーもないドラマが、昔の少女漫画のようなセリフ回しで展開されるだけのシロモノだ。
セックスが描かれるわけでもないし、生々しい気持ちが反映されているわけでもない。毒にも薬にもならないし、そういう意味では「未成年のアイドルが書いた小説としては何の問題もない合格点!」なのだが、注目したいのは、小説の主人公の女の子が憧れるものごとの数々だ。
作中で描かれる、彼氏と別れた後に立ち寄った自分だけの秘密の「アンティック・ブティック」、元彼との微妙な関係のなかで観に行く「フランス映画」、留学先に選んだ「ロンドン」、そして留学先の「カフェテリアで元彼に手紙を書く」という行為。
『なんクリ』のように固有名詞がカタログ的に羅列されているわけではない。しかし、ここには執筆当時10代後半だった渡辺満里奈が思っている「オシャレっぽいもの」が反映されているように思われる。そして、単語選びの節々に時代を感じるとはいえ、ここで描かれるオシャレっぽいもののオシャレっぽさは、今なお現役であろう。よく言えば、固有名詞の書き込みを回避することで、女子のオシャレっぽいものが小説中で普遍化されてさえいる。アンティック・ブティック、オシャレ。フランス映画、オシャレ。ロンドン、オシャレ。カフェテリア、オシャレ。
前述の通り1996年の渡辺満里奈は、1990年に出されたこの本を「できれば封印しておいて欲しい」と振り返った。では、2015年の、ピラティスやマクロビオティックやオーガニックコットンを通過し、結婚も出産も経験した現在の渡辺満里奈はどう思うだろうか。わたしの目から、1990年の渡辺満里奈と2015年の彼女を比べると、その本質は変わっていないように思える。
1990年の彼女はアイドルで消費文化に浸かっているように見える。2015年の彼女はママタレとして、テレビで雑なコメントをしながらナチュラル系のライフスタイルを喧伝している。消費からナチュラルへ、という転向に見せかけてそれは「ナチュラル系というライフスタイル」の消費だ。つまり、彼女は一貫して、オシャレなライフスタイル大好き人間なのである。そこで反感を持たれないバランス感覚の絶妙さは、本書の「凡庸さ」にも表れているのではないか。
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