連載

よくできた村上春樹オマージュがむしろもったいない! 須藤元気 『キャッチャー・イン・ザ・オクタゴン』

【この記事のキーワード】
須藤元気『キャッチャー・イン・ザ・オクタゴン』 (幻冬舎文庫)

須藤元気『キャッチャー・イン・ザ・オクタゴン』 (幻冬舎文庫)

今年の大晦日は総合格闘技の地上波放送があるらしい。なんと5年ぶりの地上波復活。かつての総合格闘技ブーム期には、紅白と『笑ってはいけない』の裏で、裸の男性がリング上で殴り合ったり、関節技をきめあったりというアドレナリン大量分泌な大晦日が繰り返されていた。K-1、PRIDE、DREAM……、色々あった。けれども、そのブームの熱は、興行会社で脱税や反社会勢力との関係などのスキャンダルや経営上の問題によって、自然消滅的に失われていった。

かつての総合格闘技ブームの最中「変幻自在のトリックスター」として登場し、派手な入場パフォーマンスと変則的なファイトスタイルで一世を風靡した須藤元気は、現在もっとも成功している総合格闘技OBと言えるのではないか。現役時代からもその弁舌には注目を浴びていたが、2006年の大晦日に突如引退して以降は、活躍の幅を拡大させながら各界で成功を収めている。

拓殖大学のレスリング部監督、さらにはレスリング学生日本代表の監督も務め、自己啓発・スピリチュアル本を出してはヒットさせ、パフォーマンスユニットを組めばそれも人気を博している。さらには書道のコンクールでも受賞歴があり、俳優もやる。ここまで活動範囲が広いのは、筆者が関心を寄せる芸能人の中では押切もえぐらいしか思い浮かばないのだが、押切もえがやればやるほど自己実現のセルフ・マゾヒズム感が出て痛々しいのに対して、須藤元気はヒットを飛ばし続けているのだからスゴい。

すっかり前置きが長くなってしまったが『キャッチャー・イン・ザ・オクタゴン』(幻冬舎。2008年。2011年に文庫化)は須藤による今のところ唯一の小説作品だ。弁は立つし、ヒットを打ち続けるだけあって、相当クレバーな人なのだろう、本田圭佑の引退後のロール・モデル第1位は間違いない、須藤元気だ、と謎の直感をもとにページをめくっていったのだが、さすがの出来だった。

圧倒的リアリティのある自伝的青春小説

「自伝的青春小説」という文字が文庫版のカバーに躍っている。主人公「僕」は、アメリカで開催されている総合格闘技大会(金網のなかで試合をおこなうUFCがモデル)への出場を夢見てレスリングを始めた高校生だ。この小説は「僕」が実際に夢を叶え、アメリカで試合をおこなうまでをひとつの物語としている。実際に須藤もUFCへの出場経験があり、その経験を売りに「逆輸入ファイター」としてK-1に参戦していた。

ただ、自伝的小説と言いつつも「僕」は須藤の人生を完全になぞっているわけではない。高校卒業後、進学せずに格闘技の道を歩む「僕」に対して、作者は高校卒業後の進学先でレスリングを続け、全日本ジュニアオリンピックで優勝している。作者が描いたフィクションよりも作者の歩んだ現実のほうが成功しているのだ。現実より輝いていないフィクションのなかに須藤は、青春臭い、というか童貞臭い悶々とした男子高校生の生活を描いてみせるのだが、これはやや失敗している。描写が雑すぎてあまり面白くないのだ。

面白くなっていくのは「僕」が夢を実現するための足がかりとしてレスリング部に入るところからだ。閉鎖的な体育会系部活動という空間のなかで「僕」は先輩からの過酷なシゴキにあうのだが、この描写に強くリアリティを感じる。腐った臭いのする雑巾を顔の前に置きながら続けさせられる腕立て伏せ(腕立て伏せに耐えられなくなってしまえば、顔に雑巾がついてしまう)や、30分以上エンドレスでやらされるスパーリングといった「僕」の経験は、これを実際に体験した作者にしか書けない種類のものだろう。

この高校時代のパートで注目したいのは、過酷なシゴキに耐えながら行われる「僕」の努力についてだ。ここが強烈に自己実現感を感じさせて良い。

「学校の部活が終わったあともリョウに付き合ってもらって、技の研究をしたり、学校の近くにあるスポーツジムでウェイトトレーニングをしたりしてから帰宅した。/朝は早起きして毎日走り込みを始めることにしたが、今まで走ったことがなかったので、短い距離にもかかわらず途中で歩いたりもした。しかし、徐々に慣れてきて長い距離をスピードを落とさずに走り続けることが苦ではなくなっていった。」

中学の卒業文集にこういうことを書いていた同級生が一人はいるはずだ。名文ではないし、物語の進行上で大きな鍵になる描写でもない。しかし、この稚拙とも言える文章から醸し出される圧倒的なリアリティに私は感激してしまう。実際にこういう練習をしたことがなければ「途中で歩いた」などと書くことを思いつきもしないだろう。他にも減量の苦しさや、試合前の相手選手の研究、実際の試合運びなど経験者にしか書けない、言わばノンフィクションのような文章が本書の大きな読みどころだ。

1 2

カエターノ・武野・コインブラ

80年代生まれ。福島県出身のライター。

@CaetanoTCoimbra