連載

凡庸な不倫を通して、凡庸に成長する物語 森下千里 『倍以上彼氏』

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凡庸な「女性の成長憚」

一言であらわすなら本書は、スタイリストとして独立を目指すひとりの女性の成長の物語だ。主人公、松尾一花は人気スタイリスト・理沙子のアシスタントとして、激務と薄給(月給8万円)と「本当にスタイリストとしてやっていけるのか」という不安に揉まれながら仕事をしている。ずっと彼氏はいないし、子離れ出来ていない粘着気味な母親との関係も良くない。おまけに人の顔色を伺いがちの引っ込み思案で、自分に自信もない。

いくら裏方とはいえ、そういう奥手な性格で芸能界に関われるものなんだろうか? と設定に疑問が浮かぶものの(師匠の理沙子のサバサバした性格の描写や、ゲイのヘアメイク、わがままなモデル……などほかのキャラは、いかにも芸能界にいそうな感じがするのだが)、主人公、松尾が抱えるあらゆる局面での不安や苦しさは、悪い言い方をすれば、凡庸ですらある。

将来の不安や、家族の問題、恋愛が上手くいかない。誰しもがひとつは抱えていそうな悩みを彼女は持っている。だからこそ、凡庸でありながら、一花の悩みは読み手の共感を得るものとしても読まれるだろう。そうした問題を乗り越えるきっかけになるのが、自分と倍以上も年が違う成功したカメラマン、日高との不倫愛だ。不倫を「純愛」と呼び、「出会う順番が妻と逆だっただけ」と甘い言葉で語る日高とのロマンスによって、一花は倫理観を苛まれながら、生きるための自信を得はじめる。

この展開も凡庸なものとして非難できるかもしれない。ただ、日高から「特別なおもてなし」をされる描写は、本作の読みどころのひとつだろう。誕生日にホテルで密会し、セリーヌのバッグをプレゼントに渡される……だとか、高級寿司店のカウンター席に連れて行ってもらえる……だとか。そのリアリティは、そうしたもてなしを受けたことのある人にしか書けない種類の強さを感じる。

作者がこうした不倫を経験したことがある、とゲスの勘ぐりを働かせるわけではない。一花が味わう、ばびろんまつこ的にゴージャスな非日常は、芸能人であれば、味わっていてもおかしくない種類のものだし、それを小説のなかに上手く描き出している。並の「芸能人小説家」は、こういう見たものをちゃんと書く能力が欠けている場合が多く、ヘタクソな書き割りのような描写にうんざりさせられることも多いのだが、森下の場合、そうした欠点が見当たらない。

ただ、800枚のヴォリュームを読ませようというならば、ストーリーにもう少し起伏が必要だった。まず物語が展開し始める日高との不倫までの話が異様に長い。そして不倫関係が始まってからの流れもありきたりで平坦だ。日高との不倫を理沙子、親友、母親から非難され、「彼氏」には妻がいるのだ、これは問題のある関係なのだ、という自意識が一花のなかで高まっていく。結局のところ、相手の配偶者に対する罪悪感、そして、不倫関係の未来のなさによって、彼女は日高との付き合いを打ち切るのだが、このあたりがあっさりとしすぎてしまっている。

不倫によって彼女は自信がない問題を解決するきっかけを得るのだが、人間関係の問題をより一層深刻にしてしまう。だが、それも不倫の終焉とともに自然解決し、後にはわずかな自信だけが残される……。その流れは、自然に読めるのだが、あまりに自然すぎて読み手の前を物語がただ通り過ぎてしまう感じがする。

大きな破綻はないし、文章もよく書けている。しかし、凡庸な問題を抱える女性の成長譚で本作が収ってしまうのは、やや残念なことだ。ともあれ、執筆に2年かけ、ここまでのモノを仕上げてきた彼女には、今後の作品も期待したいと思うし(すでに二作目を執筆中のようだ)、完全にファンの目線からの意見だけれども「真面目な人だから、この仕事ができたんだろうな」とまた好感度があがるような作品だった。

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カエターノ・武野・コインブラ

80年代生まれ。福島県出身のライター。

@CaetanoTCoimbra