私がようやく病院の門を叩いたのは、他者の肉体を傷つけてしまいそうになっている自分に気づいたときでした。
いまでも覚えていますが、それは朝から降り続ける雨がベトベトと体にまとわりつくような梅雨の時期でした。かびくさい部屋は暗く、泥だらけの窓から見える庭の紫陽花が貧相な葉っぱを揺らしていました。湿気とかびに包まれた私は、暗い部屋に立ち尽くしたまま、泣いていました。
夜眠れない、ごはんが食べられない、希死念慮がある、これらは自分の肉体がダメージを受ければ終わることです。自殺した場合、もちろん周りの人に迷惑をかけたり、社会や家族に経済的損失や精神的苦痛は与えてしまうけど、死ぬのは自分だけ、という点において他者の肉体は傷つけずにすみます(ビルから飛び降りたときに道を歩いている人に激突した場合は別ですが)。
その病院は、ひっそりと建っていた
けれど、自分の精神・肉体の状態が原因で、他者の肉体を傷つけてしまいそうになるだなんて、許されないことです。
こんな恐ろしいことを考えるだなんて、すべては、夜眠れない・ごはんが食べられない、そして、死んでしまいたい、などの精神的・肉体的不調を放っておいたからだ。ここまでヘンな精神状態なのに治療を受けないなんて、私は無責任すぎる。自分の無責任が原因で他者に怪我を負わせちゃダメだ。
そう考えた私は、ぼたぼた垂れる涙を拭いつつ、インターネットの検索エンジンに「うつ病」「病院」「自分が住んでいる町」のキーワードを入力しました。
驚いたのは、ほんの5分くらいのところに精神科の病院があったことでした。その病院は鬱蒼とした林のあいだの、舗装されていない泥道を抜けたところに建っていました。インターネットの情報とGoogleマップがなければ絶対にたどり着けないなという場所です。以前読んだ何かに、精神科の病院というものは、人知れずひっそりと営業する伝統芸能のようなものだ。と書いてありましたが、その言葉どおりだ、と感心しました。
こうして私は精神科で治療を開始したのでした。
1 2