新年あけましておめでとうございます!
今年も宜しくお願い申し上げます。
年明け早々、テレビでは社会学者が「ハーフって劣化するのが早くないですか?」と発言して炎上したり、アニメ『おそ松さん』の最新話(第13話)がポリティカル・コレクトネス的に望ましくないのではと話題になったり、新年早々ジェンダー問題が盛り上がりましたね。
「ハーフって劣化するのが早くないですか?」発言に関しては、レイシズム(人種差別)でありルッキズムであるので、大人だったら思っていても絶対に言ってはいけない「ポリティカル・コレクトネス」的にアウトな発言です。
「ポリティカル・コレクトネス」というものに対して、あえて「差別は許されてはいけない」ではなく、「思っていても絶対に言ってはいけない」基準だと述べたことには理由があります。それは私が、差別は「絶対に許されてはいけない」ことであると同時に、「人は悪意ではなく、無意識や親切心からも人を差別する可能性がある」と思っているからです。
もちろん、無意識や親切心からであっても差別発言が許されるわけではありませんし、無意識や親切心からであるがゆえに、よりいっそうタチが悪い差別になることだってあります。ただ、差別をする人も一人の人間であり、差別は非難されて当然の行為であるけれども、私たちは、差別をする人の思考を無理矢理変えることはできないということを忘れてはいけないのです。
内面の統制は不可能
「ポリティカル・コレクトネス」は、差別をした人を社会から排除するための呪文ではなく、「大人なんだから最低限守りましょうね」というレベルの規定のようなものです。そして、「自分は差別などしない」と、ポリティカル・コレクトネスの遵守を心がけている人であっても、完璧に守れることなどあり得ないと私は考えています。ダブルスタンダードであろうとも、「差別は絶対に許されてはいけない」ことであると同常に、「完璧な人間などいないに等しい」ということを考える必要があると思うのです。
自分に嫌なことをした人がひどい目にあって胸がすく思いがしたり、多くの犠牲者を出すかもしれない火事の炎を奇麗であると思ったり、アイドルの投身自殺のカラー写真が乗っている週刊誌を見たいと思うような残酷な気持ちを人間から漂白することはできません。“不謹慎”なものに興味を持つこと、“良くないとされるもの”が“良くないとされるもの”であるがゆえに近づきたくなってしまうことは、各人の内面の問題であって、外部の人間が無理矢理にやめさせることなんてできないし、ルールや罰則によって思考自体を制御することも不可能です。仮に遠い未来、人間の内面をすべて可視化しコントロールできるようになったとして、それによって社会が平和になるとも思えません。
「大衆はスーパースターやセレブリティがスポットライトを浴びる姿を渇望すると同時に、無惨な死を遂げる姿も渇望する」
資本主義や大衆文化が持つ大量消費、非人間性、陳腐さ、虚無感などを表現した稀代のポップアーティストであるアンディー・ウォーホルは、マリリン・モンローが謎の死を遂げたあとすぐに、マリリンの出演した最新作映画『ナイアガラ』のスチル写真から、彼女のバストアップの肖像の版権を買い、彼の代表作である『マリリン』を制作しました。
「火事が見たい」「死が見たい」、「知らないことを知りたい」という欲望は、時に残酷です。もちろん、街に火を放ったり、人を殺すことなど「実行」してはなりません。多くの人は、一時そうした感情がわき上がってきたとしても、それを実行しようとは思いません。ですが、実行しないからといって、「知らないことを知りたい」という欲望が消えるわけでもないのです。
想像力の欠如
個人的には、「大人なんだから最低限守りましょうね」というレベルの規定であった「ポリティカル・コレクトネス」が、「差別者は絶対に許さないし考えを改めねばならない」という、(独善的な)社会奉仕精神のようなものとしても見られるようになった背景には、「ポリティカル・コレクトネス」の運用にあたる「世の中をより良くしたい」という「社会奉仕の精神」に、「想像力」と「情け」の視点が足りなかったことが原因なのではないかと思います。
ポリティカル・コレクトネス的にアウトな発言をした人に対して、鬼の首を取ったように、その人の当該発言に関係しない行動や実績にまでケチをつけたり、気に入らないヤツの失敗をざまあみろと思う気持ちを社会正義にすげかえて断罪しているように見える行動には、「完璧な人はいない」「自分も無意識に誰かを差別するかもしれない」という想像力の欠如と、その人の行動や発言と人格・人生を一緒くたにしてしまう乱暴さがあるように思います。たとえば社会学者の「ハーフ劣化」発言は批判の対象だとしても、その人物の性格や容姿を貶めるようなバッシングを展開することはフェアではありませんし、情緒的に言えば「情け」、他人をいたわる心に欠けます。
「差別を情けで許せ」と言っているのではありません。私が言いたいのは、「差別をした人を、その人がした差別以外のことで糾弾するな」ということです。
もっと言えば、「アイツがした差別は許せん」と「アイツ自体が気にくわん」を一緒にしている(ように見える)ことが多いからこそ、アメリカ大統領候補ドナルド・トランプのようなあからさまな差別発言をする人が、かえって「自分を誤摩化さない正直者」として受け入れられるのだと思います。
ポリティカル・コレクトネスや反差別の理念が、どれだけ優れたものであったとしても、理念を運用するのは、常に感情のある人間なのです。そして、反差別という理念は優れているからこそ、それにそぐわぬ私憤やあてつけ(に見えるような行い)があれば、悪目立ちしてしまいます。身も蓋もないことを言えば、「口先だけ奇麗なことを言っているけど言っていることとやっていることが違う、または実行力が無い人」よりも、「口は汚いけど実行力があり、自分にも利益をもたらしてくれそうな人」の方が、短期的には魅力的に見えがちであるということを、理念を運用する側も受け取る側もっと考えるべきだと思うのです。
テレビアニメ『おそ松さん』のポリティカル・コレクトネス問題は、13話以前から度々ささやかれていました。9話の「恋する十四松」で暗示されたAV出演→自殺未遂→故郷に帰るという女性の物語は「AVはスティグマなのか? AVに出た女性は後ろ暗い思いを抱えねばならないのか?」という問いにつながります。10話の「イヤミチビ太のレンタル彼女」における、男性から女性へ向けられる欲望をお金に換算して法外な金額をだまし取るという描写は、「人間いろいろだよね」とか「男女問わず嫌なヤツはいるよね」と片付けることも出来ますが、ミソジニー描写と受け取ることもできます。13話の「実松さん」の痴漢えん罪描写や、「じょし松さん」の「女の敵は女よね」という台詞なども、ミソジニーとして受け取ることも出来ます。いずれも、ミソジニーか否か、と問われれば微妙なレベルですが、ポリティカル・コレクトネス的に安心とは言いがたい、見る人によっては不愉快になる描写ではあります。
同じく13話の「事故?」に対して、一部のTwitter民が「#シコ松をNHKへ」というタグをつくり、NHKのニュース番組『NEWS WEB』 の「つぶやきビックデータ」に「シコ松」という言葉を載せるために躍起になったことに対する「マナーが悪い」という思いも、ポリティカル・コレクトネス的に安心とは言いがたい描写への反感を増大させたのかもしれません。
ある表現を差別的だと感じている人にとっては、その表現を無責任に楽しんでいる人(そのうえ悪ノリまでする人)という存在は、差別に加担しているように見えることがあるからです。それは、非常にセンシティブな問題であると同時に、一元的、一義的に判断できるものではありません。
私は、創作物におけるポリティカル・コレクトネスの問題に関しては、『アナと雪の女王』や『マッド・マックス 怒りのデスロード』のようにポリティカル・コレクトネスに配慮した表現は素晴らしいとか、もっとそうした表現が広まれば良いとか、そうした表現を見つけたら積極的に評価したりシェアしてクリエイターが表現を続けられるように応援したい、とかなら理解できます。
でも、ポリティカル・コレクトネスの配慮に欠ける作品や、そうした作品を好む人たちを非難することで溜飲を下げて良いのか。そうした欲望がどのようにして生まれるかの考察ではなく、そうした欲望はいけないという前提で批評することにはあまり生産性がないのではないでしょうか。
何より私は、「火事が見たい」「死が見たい」というような人が抱き得る残酷な欲望、実行しないからといって消えない「知らないことを知りたい」という欲望、“良くないとされるもの”に近づきたくなってしまう欲望を、創作物によって解消することは、良い悪いは置いておいて、ルールを守って生きる人間たちにとっては必要なことであると思っています。
2016年2月19・20・21・27・28日 連続トークイベント『マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー』開催!