内面化した差別意識から逃げない『タラレバ娘』
さて、「とにかく女が損をしないようにする」というのは、一見、とてもフェミニズムっぽい言葉ですが、勘違いしてはいけません。
「女性や様々なマイノリティーが、マイノリティーであるという理由によって、差別や不利益を被らないようにする」ということが、フェミニズムであり、ジェンダースタディーズなのです。マイノリティーの権利向上は、マイノリティーの特権化でも、マジョリティーの権利侵害でもないのです。
「誰かが損をしたり不利益を被るかもしれないから、○○という権利は制限しよう」というのは、ざっくり言えば公共の福祉の概念ですが、こうした公共の福祉的監視がジェンダースタディーズと結びつくことを、私はとても危惧しています。
なぜなら、「大勢の人が不愉快な思いをする」とか、「道徳に反している」と言う理由で権利を制限されることこそ、マイノリティー差別の歴史に他ならないからです。
私が、『ヒモザイル』や『東京タラレバ娘』といった東村アキコ氏の漫画を、メンズスタディーズ、フェミニズムのひとつだと考える理由は、これらの作品に、「正攻法じゃなくても、とにかく、思ったまま突き進んじゃえ!」という、フェミニズムという名前の出来る前のフェミニズム、あるいは、1990年代後半に輸入されたクィアスタディーズや、安野モヨコの『ハッピーマニア』のような、自由を求めるエネルギーを感じるからです。
『東京タラレバ娘』の主人公で脚本家の鎌田倫子と、その友人でネイリストのかおり、実家の居酒屋で働く小雪は、「2020年の東京オリンピックまでには結婚したい」という原動力によって、「明らかに価値観が合わない相手との恋愛」や「元カノ兼セフレ」「不倫」といった、目的が結婚であれば、明らかに方向性を間違えていたり、現実逃避であったり、ハードルが高かったりする恋愛に向かって、猪突猛進に進んでいきます。彼女たちは、自分が進んでいる方向が明かにベストではないと気付きつつも、「わかっちゃいるけどやめられない」「わかっちゃいるけど止まれない」とばかりにもがき続けるのです。
確かに、『東京タラレバ娘』の世界観は、「行き遅れ女の井戸端会議」「30代は自分で立ち上がれ もう女の子じゃないんだよ」とか、「女は結婚すればセコンドにまわって 旦那さんや子供をサポートしながら生きていく」といったエイジズムやルッキズムや女性蔑視に満ちています。主人公たちは、そうした差別を突きつけられる度に傷つき、怒りつつも、そうした差別的な視線と無関係になれず、それどころか、「あの女より顔もスタイルもマシ」「もう33歳だけど40オーバーの独身女よりは全然マシ」と差別を内面化してすらいます。
「でも いくら「マシ」を数えたって 私の人生全然幸せじゃない」主人公の倫子は、人を年齢や性別や容姿で比べることと、自分自身の幸せが無関係であることをわかっていながら、若くて才能があって、向こう見ずで図々しい女性に引け目を感じます。
エイジズムやルッキズムや女性蔑視といった差別を否定しつつも、どこか若さや美しさに引け目を感じてしまう。差別を否定しようとする人間の抱える矛盾を描くことは、「自分の抱える差別意識をなかったことせず向き合うこと」の描写でもあり、『東京タラレバ娘』は、こうした、人間が抱える矛盾を描くバランスがとても上手いのです。