マイノリティライフの思わぬ効用
でも、そんなマイノリティおひとりさまライフを私は嫌っているわけではない。
もちろん寂しいことはあるし、たまに実家の母と長電話した翌日に喉が痛くなって、「日頃どれだけ人と話してないんだ……!」とぞっとすることもある。でも、自分で選んだ道だし、ひとりの時間も悪くない。食事は体調にあわせて好きなものをとれ、好きなタイミングで出掛けられ、仕事のアイデアを誰にも邪魔されず練ることができ、ゆっくり集中して本が読める。
それに、人といる時間とひとりでいる時間とのメリハリもついた。人といる時間はパワーや感性をやりとりする時間、ひとりでいるときは考えを熟成させたり、心を静かにして自分と向き合ったりする時間。書く仕事を始めて、その切り替えの重要さに気が付いた。
何より、大勢の輪の中にいる時間、気のおけない友人との時間やたまに夫とゆっくり過ごせる時間が、素晴らしくあたたかで刺激的なものとして輝く。外で働いていた独身時代は「人と会う、話す」なんて息をするのと同じくらい毎日当たり前にしていたのに、それが当たり前でない状況に身を置いてみたら、その尊さに気づいた。ちょうど、海外に行った人が「外に出てみたら、当たり前だと思ってた日本のよさに気づいたわー! あぁもう日本大好き。」と言うのと似ているかもしれない。
雑誌で描かれるような、いわゆる「仕事も、結婚も、子供も。そして輝く私!」を体現したきらきら主婦生活を私は送っていない。 ファッション雑誌は読むけれど、そこに描かれているライフスタイルは自分と日常と違いすぎて参考にならないので、ターゲット層に拘らず、シンプルにファッションや美容の情報を得るために読んでいる。
そしてそれは、“自分の幸福度を測るものさし”を外部に求めないですむことに繋がっている気がする。
メディアで描かれるライフスタイルに憧れ、意識的にしろ無意識的にしろ模倣すること、それ自体は全く悪いことではない。でもいつのまにか雑誌の価値観=自分の価値観になり、どのくらいそれを体現できているかを自分の幸せ度を測るものさしにしてしまうのは、あまりに主体性が無さすぎではないか。ましてや、それを自分と他者との比較にまで使い始めると、あれよあれよという間にマウンティング精神の出来上がりだ。
ある女友達は、子供つながりで増える「ママ友」の競い合いにうんざりしているそうだ。
「雑誌から飛び出て来たようないつもオシャレな人なんだけど、夫の仕事は何か、子供の習い事は何か、お受験はどうするのか、根掘り葉掘り聞いてくるんだよ。しかも、子供1人より2人の母親の方が上だって思ってるみたい。その人は子供2人だからいつも偉そうなの。」
うーん、マジか。じゃあ子供ゼロの私は最下層に位置づけされるんだな、と思いながらほうじ茶ラテを啜ったのを覚えている。
自分の幸せは自分で決める
メジャーなライフスタイルからかけ離れた生活を送る私には、幸いなことに、そういう画一的なものさしを自分の中に育ててしまう機会が少ない。もちろん、考えが“独りよがり”になってしまうリスク、そしてメジャーなライフスタイルを送る人たちを見て羨んだりひがんだりしてしまうリスクはもちろんある。そこは、自分を客観的に見張る必要があるなといつも感じる。
でも、マイノリティも捨てたものではない。いい古された言葉ではあるが、自分の幸せは自分で決めたい。私は、「結婚してもおひとりさま」のマイノリティライフを愛して、自分なりに楽しんでいこうと思う。みなさんの幸せのものさしは、自分の中にありますか?
(吉原由梨)
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