「自分は暴力的な欲望なんて持ったことが無い」と思う方もいるかもしれません。「自分の欲望だけはキモくなくて承認されるべきで尊い」とすら、思っている人もいるのかもしれません。というか、だからこそ、芸能人の不倫を糾弾することが“正しさ”というキラーコンテンツになり得るのかも知れません。
高校生のころ、クラスに「キモオタ」と陰口を叩かれている人がいました。教室の机に、「お兄ちゃん大好き」とか「お兄ちゃん元気出して!」「なんかお胸がムズムズするよう……」なんて台詞とともに、幼女がロリ巨乳の少女に成長していく過程の絵を描いていたからです。彼は自分の欲望を、印籠のように教室の机に刻んでいたのです。
自分の欲望を印籠のように振りかざせば、当然、その行動を「キモい」と思う他者が出てきます。ですが、重要なのは、「自分の欲望を印籠のように振りかざすこと」と「その人が持っている欲望そのものの」(のキモさ)は別である、ということなのです。
また同じころ、私は「恋愛の話(いわゆる恋バナ)」というものがどうにも苦手でした。私は話すことが好きなので、人と話すときは基本的に気の利いた合いの手を打ちたいなあと思っているのですが、恋バナに関してはそれが上手くいかない。自分なりに分析してみると、「恋バナ」は、会話を転がす面白さよりも、「あー、わかるー」みたいなしみじみとした共感と「キャー、それ好き!」みたいな一過性の興奮の交互の波で構成されている部分が強く、オチとかツッコミのキレとかが求められていないからでした。そして、「恋バナの盛り上がり」という、ある欲望が無条件に肯定されて祝福される空間に、居心地の悪さを覚えたということも事実です。
私には、「キモオタ」と呼ばれた彼の欲望と、誰かに恋する彼女たちの欲望の差異がわからなかったからです。
恋愛用語においては、「Aさんが好き」という叙述は、非常にしばしば、「Aさんが好き、だからAさんに自分を好きになって欲しい」という省略があります。ここで省略された「Aさんに自分を好きになって欲しい」という欲望は、「他者の意思を書き換えようとする欲望」という暴力だと思うのです。
自分のことを好きかどうかわからない、もしくは、自分のことをなんとも思っていないAさんを、自分のことが好きなAさんに書き換えたい。この欲望を突き詰めると、現状の他者を殺し、自分にとって望ましい他者に変容させるという、殺意にも似た感情になるように思います。
そして私は、恋心を無条件に祝福したがる文化がよくわからないので、「恋心と殺意の違いを説明しなさい」という問いに対して、「人間は好意には鈍感で、悪意には敏感である」くらいの答えしか思い浮かびません。例えば、中学校などで、「B君殺したい!」と言っている生徒がいたら、教師もクラスメイトもB君も必死に警戒するでしょう。ですが、「B君が好き!」と言っている生徒に対しては、B君がものすごく迷惑しているとしても、周りは結構甘いと思うのです。「どう考えてもB君と恋仲になるのは無理じゃない?」という場合ですら、「なんとかなるなる」「アタックアタック」と無責任な応援をする人だっているでしょう。
なぜ、欲望という暴力の中で恋心だけが肯定され、祝福されるのでしょうか?