『保育園落ちた日本死ね!!!』の主張の通り、保育園は足りていないし、育児は母親がメインの仕事というジェンダーバイアスは根強いし、保育や介護などのケアワークは「愛情」という信仰のもとブラック化しやすいため資格保有者は大勢いてもなり手は少ない。
だからといって、「罵詈雑言は罵詈雑言である」ということまで忘れてはいけない。インスタントに軽やかに、コーラの泡のように、自責の念を忘れて罵詈雑言を吐いてはいけない。それが共感とある方向から見た事実という正義で出来た素晴らしいコーラであるとしても。
なぜならいつでもどこにでも「他者」は確実に存在するからだ。あらゆる場所に他者はいるのだ。「保育園落ちたの私だ」という人以外の、「保育園落ちたのは私じゃない」という人と話をする手段として、罵詈雑言が適切かどうか、今一度考えてみて欲しい。
平沢議員は「保育園落ちたのは私じゃない」立場の人だ。安倍晋三首相も、「保育園落ちたのは私じゃない」。多くの企業団体のトップで権利を有する人々も、どこかの社長や部長も「保育園落ちたのは私じゃない」人が大多数だろう。というか、「保育園落ちたの私だ」と言える立場の人々は総人口から見たら圧倒的に少数派で、だからまず優先課題にされない。彼らにとってたとえば高齢者問題はこれから先、直面する可能性がなくもないうえ、支持者の多くが高齢者層なのだから、喫緊の課題として多くの人員と予算を充てる“べき”課題だろう。一方で、待機児童問題に彼らが直面することはまずない。日本の保育・教育支援予算の割合は、OECD加盟国の中で最低であり、高齢者予算の1割程度に過ぎないのは、その結果だろう。
ただ、「保育園落ちたのは私じゃない」の立場の人は、こうした権力を持ち声も大きいマジョリティのトップの他にもいる。というか、「保育園落ちたの私だ」と言える立場の人々は総人口から見たら少数派ではあるが、国会が無視できない程度には数がいる、マイノリティの中のマジョリティではあるし、日本の社会保障存続のために解決すべき課題ではあるのだ。
マジョリティのトップでもマイノリティの中のマジョリティでもない「保育園落ちたのは私じゃない」の立場の人には、例えば子供を持つ気がない人で子供を持つ人に親しみのない人や、社会保障制度になどはなから関心がない人などが挙げられる。言うなればマイノリティの中のマジョリティではない層だ。その層は、一見するとマジョリティのトップととてもよく似て見えるかも知れないが、両者は確実に違うのだ。
罵詈雑言は、マジョリティの中のトップの「保育園落ちたのは私じゃない」人をいらだたせ、マイノリティの中のマジョリティではない「保育園落ちたのは私じゃない」人たちを、待機児童問題やケアワークのブラック化問題から遠ざけるだろう。
自分と違う他者と話をするため、あるいは、対話を放棄したいのでなければ、他者を思いやった言葉で話す必要があるのだ。
覆水盆にかえらず、溢れたコーラは戻らない。