そこに“自分”はあるの?
「実は私、離婚したんだよね」久しぶりに会った友人からの突然の報告。
30にもなると、周りで離婚するカップルがちらほら出てくる。私は離婚自体にネガティブなイメージはあまりない。もちろん、おめでたいことではないけれど、上手くいかなかった関係を清算して次の道へ進もうという積極的な行為であって、そこに踏み切った彼・彼女らを応援したいと思う。なんなら自分だっていつ同じことになるか分からない。
とはいえ、離婚は結婚の倍の労力が必要だと聞く。そんな大変な思いをした後だ、「あの人と結婚したのが間違いだったのかなぁ」と愚痴を言いたくなるのも当然の心理なんだろう。でもたまに「えっ」と思うケースに遭遇する。結婚生活が上手くいかなかった理由を周りのせいにするのだ。「親がすすめたから」「紹介してくれた人が『いい人だよ』っていったから」「結婚をせっつかれて焦っていた時にちょうど付き合ってたのが彼だったから『まいっか』と思って」……まるで「親が悪い」「焦らせた周りが悪い」とでも言いたげな口ぶりだった。
いやいや、今は2016年だよ。戦前じゃあるまいし、別れることになったとはいえ、よっぽどの事情がない限り、一度は「この人を伴侶に」と最終的に決めたのは自分だ。そこに自分の価値判断は存在しないのか?
結婚に限らず、何かを選択・判断するには基準が必要だ。もちろんそれは理路整然とプレゼンテーションできるようなロジカルなものから、「肌に合う」「しっくりくる」といった直感的なものまで様々だろう。ただ、「幸せだ」と思える決断を下すためには、“自分で”その基準を持っておくことが重要だ。そうすれば、良い方向に物事が進めば自信を深められ、たとえ結果として良くない方向に進んでしまっても、それを自分事として受け止めて、決断の際の基準を省みることが出来る。次の判断は、より「幸せ」へとつながりやすいはずだ。
じゃあ、この判断の基準をどう定めていけばいいんだろう。基準は自分の価値観から派生する。