僕は中学生の頃、随分痛い人間でした。
空気が読めず、運動が出来ず、喧嘩が弱い癖にすぐ人に噛みつく。
ジーパンの上にデニムシャツ、デニムオンデニムで、何故か夏でも黒のロングコートを着ていました。瓶底メガネをかけて、髪型は近所の床屋カット。全く風呂に入らず、髪の毛はフケだらけ、そのフケが黒いコートに降り落ちて白い模様をつくっていました。ザ・不潔って感じです。そして僕はブリーフを履いていました。
僕の中学では、体育の着替えの際にブリーフを履いてる人間は問答無用で殴ったり蹴ったりしていいということになっていました。四月の最初の時点では半分くらいがブリーフでしたが、蹴られてはたまらないので、みんな次々にトランクスデビューしていきました。
僕は両親にトランクスを買ってくれと懇願しました。僕の両親は二人ともちょっと変な人だったので、僕は泣いて懇願しましたが、何故か買ってもらえませんでした。結局、クラスでブリーフを履いているのは僕だけ、という状況が生まれました。
そのうち、標的が僕だけになると、殴る蹴るのレベルがどんどん上がっていきました。着替えてると次々にドロップキックが炸裂、着替えの時間は殴られたり蹴られたりすることに付き合わなければならなかったので、当然僕だけ着替え終わることがなく、僕は体育をよく遅刻するようになりました。僕は中二の中ごろまでブリーフを履き続け、かなり遅れてトランクスを履くことになるのですが、僕のパンツがトランクスに変わっても、着替えの時間に蹴られるのは僕の役目でした。親は、子供が欲しいと言った物をすぐに買い与えるのに抵抗があり、何度も頼まないと買ってくれないという方針だったわけです。
まぁ、別にブリーフだからいじめられたわけではありません。単にキモいからいじめられていたんだと思います。
わざわざ受験をして入った中学は、当時京都で三番目くらい、つまり可もなく不可もないようなそこそこの学校です。別にもう少し上のランクの中学も行けたのですが、父親の強い意向でその学校に通うことになったわけです。父親はその学校に対して、思い入れが強かった。
入学するまでは、受験に合格することが僕の至上命題でした。それが、入学後はというと、その学校で楽しいスクールライフを送ることが僕に課せられた使命になりました。つまり、リア充になることを求められていたわけです。
大学付属のエスカレーター私立中学で、受験勉強に追われず、伸び伸びと青春生活を謳歌して欲しい。それが両親の願いでした。
しかし、致命的なことに、僕という人間は、それにとことん向いていませんでした。
授業は死ぬほどレベルが低く、金持ちばかりが通う学校で、みんなは金のかかる遊びで盛り上がっていました。なんせ、入学から一カ月後には、GWに京都から東京までディズニーランドに遊びに行こうというのですから、中々にバブリーです。
今思えば、ノリが大学生でした。
うちはその中ではわりとけっこう貧乏でした。というか、まぁ普通の庶民だったわけです。色々、背伸びしないとついていけなかった。
ブリーフを履きながら、殴られ蹴られ、遊ぶお金もなかった当時、僕はそれでもまだめげずにリア充になることを目指していました。両親が、苦労して塾代やら何やら払って僕をこの中学に入れ、入学してからも頑張って学費を払っていたわけです。だからその期待に応えたかった。そのときの僕は、なんだかんだで、両親のことを尊敬していたのです。
楽しく充実した学生生活といえばなんだろう、と僕は考えました。とはいえ、ディズニーランドにはお金もないし行かせてもらえません。学校の前に、ワンコイン50円のゲーセンがありました。今から思えばだいぶピントがずれている気がしますが、これだ、と僕は思いました。