人生色々悩んでる僕が、皆さんに人生相談して、頂いたお答えを元に考えていく、というこの連載も残りわずかです。以前「人間的に問題のある奴なら、いじめてもいいと思いますか?」という相談をしていました。
この記事、コメント欄やTwitterなどのSNSで本当にたくさんのコメントを頂いたのですが、今回の記事では、そのコメントはあまり参考にしていません。
参考にならないな、と思ったからです。
それにしても、いじめの問題というのは、事件固有の悲惨さや凶悪さにかかわらず、一定の頻度でニュースとして取り上げられます。
それはおそらく、とくに大きな話題がないときなどに、ワイドショーで取り上げるのに適した題材だからでしょう。
何故なら、いじめの問題というのは、一見すると、すごくわかりやすいからです。
いじめは悪いことで、大変にいたましい。被害者の写真を何度も写し、エピソードを取り上げ、そのかけがえのない人生が失われたことを悼む。
そして、コメンテーターが毎回お定まりの論理で、憤ってみせる。
・いじめはいじめる側が100%悪い。
そこでは善悪の構図が非常に単純に表現されています。戦争だって仮面ライダーだって、最近は誰が正しくて誰が悪いのかわかりにくい。その中で、いじめ問題というのは、すごくわかりやすい。まるでどこからともなく現れた怪物をヒーローが倒す、勧善懲悪のストーリーです。
そうしてひとしきり悲しんで、憤って、忘れていく。そんな風にしていじめの問題は、日々、消費されていきます。
いじめの構図
一旦、いじめが良いとか悪いとかは、忘れてしまいましょう。
いじめは、起きる。
では、何故いじめというのは起きるのでしょうか?
以前の記事でも書いたとおり、それは学校の中というのが特殊な空間だからです。教育的配慮に基づいて、多少の暴力は許容される。それは、家庭での虐待が見過ごされるのに似ています。
学校の中には、極端に言えば、教師と生徒しかいません。もちろん、現実には事務員や用務員の方もいるけど、空気抵抗を無視して物理の問題を解くように、それはとりあえず置いておきます。
そして、生徒たちの間にいじめが発生した場合、それを抑止する立場にあるのが教師です。
しかしながら、いじめの存在を認めること自体に、教師にとって相応のリスクがあります。彼や彼女にとって、それはマイナスにしかならない。いじめに対応するということは、教師本人からすれば日々の業務の中に組み込まれている仕事ではありません。イレギュラーな、嫌な言い方をすれば、面倒臭いトラブル処理です。結果として、教師のいじめへの対処は、個々人の倫理観や善意、やる気の問題に大きく依存しているのが現状です。
そのため、大半の教師はそれを「丸く収めようと」します。ふざけてじゃれあっているだけ、といった風に、意識的にしろ無意識にしろ、問題を顕在化させることを避けようとする。
・いじめに限らず、ハラスメントへの対策の基本は、逃げる。逃げれない場合は証拠を揃える。いろいろな関係者に事実を伝えて、問題を大きくする。
・暴力受けたら、110番します。アザが出来たら写真と状況を記録します。場合によっては受診。
いじめられたときは録音や写真などで証拠を揃えて警察に通報しましょう、とホームルームでレクチャーする教師など、この世には存在しません。
それでも、いじめの被害者当人や、あるいは被害者の家族からの訴えによって、いじめが学校内で問題化したとします。
そのとき、教師が取る基本的な対処法は「説教」です。
いじめの加害者を叱り、諭し、内面に訴えかけることで問題を解決しようとする。
・いじめる人は臆病者であり、本当に強い人はいじめなんかしないよ。
・幸せな人でいじめる人はいないと思います。企業も大人も弱い者いじめをするといずれ自分に返ってくると思います。いじめる人に幸せな人はいないと思います。
こういった、毒にも薬にもならない、無根拠な響かない言葉を延々と並べ続けて、それで何か対処したということになる。
現実には、多くの場合、加害者はそれを聞き流し、後日被害者に対して更に苛烈な暴力が加えられる。それが何度か繰り返されることで、被害者はいじめを訴えることが出来なくなっていき、次第に自らいじめられている事実を隠そうとするようになる。一口に言えば、そのまま黙っていじめられている方がまだマシだ、という状況が生まれます。そこには、奇妙な共犯関係が存在しています。
それは、よくある話です。
いじめに対する第三者のまなざしの必要性
僕には、いじめの抑止力として、教師は正常に機能していないように見えます。
何故なら、教師自体がいじめという問題の利害関係者として組み込まれており、そしてその問題に対処することに、現実にはデメリットしか存在していないからです。
いじめについて、教師個人の属人的な価値観に多くを委ねているのが現状ですが、その仕組みは機能不全を起こしています。
どうすればいいのでしょうか。
よく、いじめについて、学校の隠蔽体質が問題だ、という言い方がされます。
隠蔽体質、というのもよく聞く言葉で、汚職やリコール、横領など、他の色んな場面でそれは使われています。
ではこの社会は、他の隠蔽され得る問題について、どうやって対処しているのでしょうか。
例えば家庭内の虐待であれば児童相談員が、企業の粉飾決算には外部監査委員会が調査するということになっています。
そこでは、外部の人間がことにあたる、ということがとても重要視されているように見えます。
僕は、いじめについて、学校の外部の人間が調査し問題解決に当たる、ということをするべきだと思います。
・警察へ行こう。通報しよう。暴行罪で立派な犯罪。
・暴力は傷害罪だし、物を盗んだら窃盗罪。他にも強要罪や脅迫罪など刑法で罪に問われる行為です。
というコメントは全く正しいのですが、一方で、現実的にいじめのような問題はそう簡単に立件出来ないということは忘れてはいけません。被害者は子供であって、知識も経験も金も行動力もない可能性があります。ICレコーダーひとつ買うのにも小遣いでは厳しいし、その小遣いだって恐喝されているかもしれない。録音していることがバレれば、より苛烈ないじめが行われるかもしれない。
冷静に、公正に、第三者の視点から問題解決に当たる役目の人間が、欠けている。だから、学校環境調査担当でも、いじめ担当でも、名前は適当に付けたらいいから、そうした担当者を用意するべきではないか、というのが、以前の記事の繰り返しになってしまいますが、いじめという問題が起き得る学校という名のシステムに対する、僕の改変案です。
絶対にダメなことは、簡単に起きる
とはいえ、残念なことに、僕は社会問題について専門的に研究しているインテリでもなければ、そうした制度を設計し現実に落とし込んでいく公務に携わる実務担当者でもありません。
そんな僕のような人間でも、例えバカに見えても、制度について素朴に発言することが大事なのではないか、というのがこの記事の最終的な主張の一つでもあるのですが、ところでいじめにはもう一つの問題があると思います。それは、システムと対極にある問題です。
すごくバカな言葉づかいをすると、それは倫理の問題です。
・いじめは絶対ダメ
よく聞く言葉です。
でも、この原理的過ぎるフレーズを口にするとき、人は思考停止しているのではないでしょうか。この「いじめ」を「戦争」や「殺人」に置き換えたらどうでしょうか?
戦争絶対反対!
どんな理由があろうと、人を殺してはいけない
どれも、よく聞く言い回しです。
でも本当は、僕たちは経験的に、絶対にダメなことは簡単に起きてしまう、ということをよく知っているハズです。
じゃあ、何故それは起きてしまうのでしょうか?
絶対してはいけなくて、法律で規定されていたとしても、それでも十分ではないからです。それでも人は、罪を犯してしまう生き物です。
何故なら僕たちの中には、薄暗い、非倫理的な欲望が存在しているからです。
その欲望を直視して、対峙すること抜きに、倫理を考えることはできません。
何故僕たちは、いじめがしやすいシステムを現状維持しているのか
学校を通り過ぎたらもう自分はいじめとは関係ない、という意識がどこかにないでしょうか。
本当は、あらゆる場所に、いじめがあります。
学校だけでなく。家庭に、会社に、老人ホームに、それはあります。フリースクールにだって、あるかもしれない。
あらゆる場所で、呼ばれる名前を変えながら、それは存在しています。パワハラやモラハラだったり、虐待だったり、クレームだったり、内ゲバだったり、ネットの炎上だったりする。
僕たちは、加害者にも被害者にも傍観者にもなる可能性があります。
「人間的に問題のある奴は、いじめていいと思いますか?」と聞かれて、「OK」と答える人はいないでしょう。
でも、僕たちは問題のある人間を見つけたときに、つい攻撃したくなってしまう。もやもやした気持ちを発散して、スカっとしたくなる。
もしかしたら、いじめの被害者は、誰かの妄想にとって都合がいいような、ただかわいそうなだけの美しい少年少女じゃないかもしれない。現実には、協調性がなかったり、卑怯だったり、問題のある人物かもしれない。生理的な嫌悪感を抱かせるタイプかもしれない。そいつが自分以外の誰かにいじめられたらスカっとするのにな、と思ってる自分がいるかもしれない。それが、集団の秩序を維持するための、必要悪に感じられてしまうことがあるかもしれない。そしてあるいは、こんな自分はいじめられて当然、と思ってしまうかもしれない。
そのときどきの、生々しい現実の、一つ一つのケースについて、
本当に、それでいいのか?
と問いかけることが倫理だと思います。
僕たちが倫理的であるために出来ることは、常に当事者であり続ける自分の内側と外側の両方に対して、問い続けることだと思います。
説教のような押しつけられる建前ではない、リアルで切実な自前の倫理を、内側から立ち上げていくこと。
その欲望に歯止めをかけるためのシステムについて、考え続けること。
村上春樹氏はエルサレム賞のスピーチで、壁と卵に喩えて、自分はシステムではなく個人の側に立つと発言しました。でも僕は、人はシステムと向き合わなければならない、と考えます。何故なら、そのシステムを生み出したのは人で、変えていくことが出来るのも人でしかないからです。非人間的なシステムを望んだ僕たちの欲望と、倫理を通して、向き合うこと。ナイーブにならず、システムを改変することを恐れず面倒臭がらず、きちんと粛々と進めていくこと。
いじめは、起きる。だから、それをエスカレートさせない対処法を考えるべきだ。
と言うとき、
「いじめてもいいけど、ほどほどにしとけよ」
というような、腐った教師のようなことを言おうとしているわけではありません。
自分の薄暗い欲望の中身と、どう折り合いをつけていくのか。例えばそのためのシステムについて話すことで、僕たちは自分の欲望と向き合えるんじゃないか。
というのが、僕の結論です。
みなさんは、どうすればいじめを止めることが出来ると思いますか?