人間は死んだら無になる。それってどうなんだよ? っていつも思う。
母親が喪服を買っていた。通販で、29800円。聞くと、親戚のおばさんがもうすぐ死ぬらしい……という話から数カ月が経過して、まだ中々死なない。こうなってくるとだんだん周囲が「死に待ち」みたいな雰囲気になってくる。僕もいつか自分の両親に対してそんな感情を抱くときがくるんだろうか。そしていつか誰かに、自分の死についてそう思われる日がくるのか、と思ったりする。
たまに昔の知り合いから連絡があって、大抵いつも「最近何してんの?」と聞かれる。その度に、なんて答えればいいのかわからなくなる。でも別に、働いてないせいで答えに窮してる訳じゃない、と思う。働いてたときも、僕はそういうとき、なんて答えればいいのかわからなかった。ただ、働いてると「最近仕事で忙しくてさ」で誤魔化せるってだけだ。それで、僕は一体何をしてるんだろう? でも、それをきちんと説明出来る奴なんているんだろうか、とも思う。
友だちのオクナくんは熊本で働いているから、震災以降それなりに忙しそうだ。最初にニュース速報が流れたとき、僕はちょっと忙しかったのだけど(僕も無職になるまで知らなかったのだけど、不思議なことに無職にも忙しいときというのがあるのだ)、手を止めて興味本位で彼に電話してみた。もしかして死んでないかな、と思ったのだ。コール音が鳴る。シュレディンガーの猫だ。もし彼の生死が賭け事の対象になっていたら、50円くらい賭けていいという気分だった。でも予想通り彼は電話に出た。
「オレ、精子が少ないらしくてさ」
ということに最近の彼は悩んでいるらしかった。どうやったら精子を増やせるんだろう? と彼は悩んでいるらしい。僕はネットで精子の増やし方を検索して、サプリメントの情報などを彼に送ってやった。そういえば、3.11のとき、結婚する奴が増えた、という話をなんとなく思い出したりした。
地震が起きるとたくさん人が死ぬ。そのとき、身近な人の死を願っている自分に気づく。それは奇妙な感情だと思う。同じくらい、どうか生きてて欲しい、と願ってもいる。
別の頭で、この世は不公平だ、と思う。あるいは公平だ。誰かは確実に死んでるのに、身近な人の生存を願う自分の願いはアンフェアなものだと思い、そんなかけがえのない人間が死んでしまうこの世は公平だと思う。それと全く逆のことも思う。
人は、大量に同時に死んだり、一人でそっと死んだりする。死ぬ人間と生きてる人間の間に、違いなんて何もない。昔、僕が通っていた大学の近くで、JRが線路からコースアウトしてマンションに突っ込んだ。大阪方面から大学に通うのに乗る電車がそれで、だから僕の通っていた大学の学生もたしか何人か死んだ。
当時付き合っていた彼女は大阪に住んでいて、両親は離婚していてその子は父親と二人暮らしをしていたのだけど、豪邸過ぎて使ってない部屋が幾つもあったので、僕はたまに忍び込んで泊まったりしていた。二世帯住宅というわけでもないのに風呂が二つあって、トイレなんか僕の部屋より広い。外科医をしていた彼女の父親が帰ってくると、僕は息を潜めて3階の角部屋に隠れた。彼女が父親に食事を用意して、父親がシャワーを浴びて寝るまで、本を読んで待った。彼女がやって来て、いつの間にか眠り込んでいた僕を起こしてセックスしてまた自分の部屋に帰って行く。父親が出勤したあとに起きて、適当に準備して彼女と手をつないでJRに乗って大学に行った。彼女は僕の大学の隣にある女子大に通っていた。
だから僕がグシャグシャになってたかもしれないし、そのときの彼女がグシャグシャになってても別におかしくない。僕が生きているのは、その日たまたまその彼女の家に行かなかったからというだけで、それは確率的な問題なのだと思う。それと同じくらい、自殺するかどうかも確率的な問題に感じられるときがある。
「手首切ったらしーよ」
大学時代、サークルの先輩の昔の恋人が、学生演劇の本番中、リストカットする演技の場面で本当に手首を切った。「こっちが死にてーよ」血まみれになった舞台の掃除をしたあと、別の先輩がビールを飲みながら愚痴っていた。
たまに、誰も彼もが、僕と関わったせいで自殺したんじゃないかと思う。もし僕が竹で割ったようなわかりやすい性格だったら、違ったかもしれないと思う、そしたら、かわりに僕が死んでたかもしれない。
みんな本当は、生きるのが虚しいということを知っている。自殺した人間と、今もまだ生きている自分の、何が違うのか、わからなくなる。
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