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女性が男性に依存せず一人の人間として生きるようになったら、「男性性」の優位性はなくなり、男性もまた一人の人間として生きねばならなくなる。【少女革命ウテナ考察後編】

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 劇場版で樹璃と枝織の関係性がクローズアップされるのは、『少女革命ウテナ』が、家父長制の破壊と女性の自立だけでなく、紛れもなくレズビアンの物語であったことを、より強く印象づけるものです。枝織と向き合うことの怖さから「みんなの王子様」として振る舞う樹璃、樹璃を傷つけるためだけに男と付き合う枝織、彼女たちは、ウテナとアンシーのように、お互いに一歩一歩近づき、関係性を深めることができない、もう一組のレズビアンカップルなのです。

 劇場版で、初めてウテナが樹璃を直接の攻撃で破ることが出来たのは、ウテナとアンシーがTV版で「世界を革命すること」を成し遂げ、「王子様とお姫様」の共依存ではなく、対等な人間として、互いと向き合う関係性に発展していたからだと言えます。

男が女よりも優位な「王子様」で居続けるには

 さて、劇場版では冬芽も暁生もウテナと闘うことがないのは、彼らが既に死んでいるからであるということは前編でも述べましたが、彼らが存在しないものであることは、樹璃の後輩であり同じくデュエリストである薫幹が、冬芽の姿が見えず、冬芽の存在自体を知らないことからも明らかです。彼らは、ウテナ・アンシー・樹璃・枝織の4人だけにしか見えない存在です。それでは、死んだ二人は何のためにウテナやアンシーの前に現れ、何を象徴するのでしょうか。

 冬芽と暁生は、まず、TV版で壊された「王子様」システムです。「お姫様」を求め、彼女たちを抑圧する、家父長制でもあります。

 次に、劇場版で彼らが見えるのは、ウテナ・アンシー・樹璃・枝織の4人だけである理由は、彼ら2人の王子様が彼女たちにとっての「後悔」の象徴であり、「王子様」システムを破壊しても、内面化された「お姫様」の規範や抑圧が、すぐに消えるわけではないことを表します。

 しかし、2人の「王子様」は、少女たちを抑圧するためだけに生まれた存在ではありませんでした。劇場版の桐生冬芽は、幼い頃実父に売られ、養父に性的虐待をされていたことを匂わせます。キャベツ畑で養父に押し倒される幼い冬芽の姿は、「赤ちゃんはキャベツから生まれてくる」という迷信(コウノトリが運んでくるの西洋版)を信じているような無邪気な子供に訪れた暴力を、より強調します。そのような状況の中でも理想を捨てず、溺れた少女を助けるために池に飛び込み命を落とした彼は、「王子様」として「誇り高く」生きたゆえに命を落としたと言えますし、逆に、「誇り高さ」を失わず死ぬことによって「王子様」という理想を体現できたとも言えます。

 劇場版の鳳暁生は、強くて悪くてかっこ良かったTV版とはうってかわって、ひたすら弱く愚かです。車の鍵をなくし探しまわる姿は、「理想」を見失った象徴ですし、薬で眠らせたアンシーを犯していたことを、実はアンシーが知っていたと知り錯乱し自殺する姿は、お世辞にも「王子様」的な振る舞いであるとは言えません。彼が冬芽に「王子様の正体は蠅の王であった」と伝えるのは、「王子様などはじめからいない」という告白でもあります。

 亡霊としての彼らは、「王子様」でいることは、「お姫様」を抑圧するだけではなく、「王子様」自身にとっても辛く苦しいことであること、「誇り高く死ぬ」ことくらいでしか、「理想の王子様」を体現することはできないこと、「王子様」など最初からいないことを物語ります。

 これは、現代のメンズスタディーズの抱える問題とも共通します。家父長的な強い男性になりたくないのにそうあることを求められ、「女性差別反対」とフェミニストを中心に怒られながら、実生活ではまだまだ「男のくせに」「男なんだから」と、家父長的な振る舞いを求められる。好きで男に生まれた訳ではないのに「男」を無理矢理引き受けさせられ、責任だけは取らされるような、割に合わなさを感じている。

 余談ですが、こうした「王子様の自己否定」の物語は、劇場版ウテナ制作と同時期に、同じ男性スタッフたちによって複数作られています。

 劇場版ウテナと同時上映をした『アキハバラ電脳組 2011年の夏休み』では、王子様は悪夢をみたくらいで街を混乱に陥れ、少女たちに尻拭いをさせる不穏な存在として描かれますし、その前年である1998年に劇場公開された『機動戦艦ナデシコ The prince of darkness』では、TVアニメ版では「王子様」「ヒーロー」として描かれながらもほとんど精神的な成長を遂げなかった主人公テンカワ・アキトが、拉致の末に人体実験され五感に障害を抱えながら、恋人であったミスマル・ユリカの救出と復讐をする「復讐鬼」として変貌した姿で描かれます。

 TV版『少女革命ウテナ』で、「献身的な友情と希望によって、抑圧された女性が解放され自立を目指すこと」を描いた男性スタッフたちが、繰り返し、「“王子様”というシステムの破壊」や「王子様であることの不可能さ」を描いたことは、女性が男性に依存せず、一人の人間として強く生きるようになったら、「男性性」の優位性はなくなり、男性もまた、「男性」ではなく一人の人間として生きねばならなくなる。ということへの自問であり、メンズスタディーズ的な思考実験が行われていたことの証なのです。

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柴田英里

現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。現在、様々なマイノリティーの為のアートイベント「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」の映像・記録誌をつくるためにCAMPFIREにてクラウドファンディングを実施中。

@erishibata

「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」