〈悪女〉と聞いて、どのような存在を思い浮かべるだろうか。世間から大バッシングを受ける小保方晴子氏やベッキーのようなスキャンダラスな存在をイメージする人もいるだろうし、殺人を犯した凶悪な犯罪者を思い出して眉をひそめる人もいるかもしれない。
これらのイメージは、まさに「悪い女」としての悪女だ。しかし、「運命の女(ファム・ファタル)」として男性から熱い眼差しが向けられる妖艶な存在も、悪女と呼ばれる。男性を破滅させる意味では「(男性にとって)悪い女」には変わりないが、「悪い」の中身が少し変わってくる。「悪い」のなかに、抗いがたい魔性の魅力(蜜)が秘められているように思うのだ。
そう考えると、悪女とはつくづく不思議な存在である。「傾国の美女」と称されたクレオパトラや楊貴妃のように、毀誉褒貶の二面性に晒されながらもこれまで飽きずに語られ続け、彼女らに向けられる好奇と羨望の眼差しは、現代においても衰えることはない。
その証拠に、ちょうど今季に放映されているドラマをチェックしてみただけでも、『僕のヤバイ妻』(フジテレビ系)や『不機嫌な果実』(テレビ朝日系)、『毒島ゆり子のせきらら日記』(TBS系)といった、「悪女もの」とも呼べる作品が目白押しだ。男女問わず、みんな悪女が大好きなのである。悪女を否定的にとらえている人にとっても、「気になって仕方がない存在」であることには変わりない。
誰にとっての「悪女」か?
筆者がなぜ、悪女に興味を持ったのか。
一つ目は、女性が世間から悪女と認定される過程に関心を抱いたからだ。小保方氏問題の本質は「捏造」にあるのは明白だが、「割烹着」「ヴィヴィアン・ウエストウッド」といった本筋とは関係ないアイコンで語られがちだったし、理化学研究所のなかに渦巻く人間関係も、かっこうのゴシップネタになってきた。また、ベッキーと川谷絵音氏(ゲスの極み乙女。)のその後をわけた要因は、ベッキーがスポンサーを大量に抱える人気芸能人であったこと、もともと清純派のキャラクターであったことだけでは、説明がつかないように思う(もちろん、「センテンススプリング!」という歴史に残る名言を残してしまったことだけでも)。
国文学者の田中貴子氏が『〈悪女〉論』(紀伊國屋書店)のなかで指摘している通り、悪女は男性の眼差しによって計られる。男性は単なる「悪人」「悪党」と表現されるが、悪女はわざわざ「女」を強調されて語られ、「ある意味で悪女は性差別的なことばといえる」(田中氏)という側面があるのだ。つまり、悪女を語るうえでは「どのように悪いか」ということだけではなく、「誰にとって悪いか」も重要になる。だいたいにおいてそれは「男性中心の社会にとって」だったり、「男性中心の社会を内在化させた女性たちにとって」だったりするわけで、最近のゴシップを見るにつけてもそうした「世間様」からの変わらない眼差しが感じられる。
1 2