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「悪女」というスキャンダラスで魅力的な存在は、どのようにしてつくられるのか

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一方、同じ理由で悪女が英雄的な女傑として語られることもある。栗原康氏の『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)などで再評価が進んでいる伊藤野枝がその一例だ。伊藤女史は、大正時代にアナキスト・大杉栄との「自由恋愛」を生き、悪名高い「甘粕事件」で憲兵に惨殺された人物だ。既存の結婚制度や道徳に挑戦し続けた伊藤女史は、十数年前まで「あの淫乱女! 淫乱女!」と地元の住民に罵られるほど、悪名をとどろかせていた。

しかし、栗原氏の著書では、生き生きとした人物として情熱的に語られる。世間からけちょんけちょんに叩かれながらも、自分の生き方を貫き、仕事も恋愛も諦めなかった彼女の短い生涯に、ある種の痛快さを感じる人も多い。女性像が移り変わり、しばしば既存の保守的な価値観と衝突する現在において、彼女の伝記が出版されたことは偶然ではなく、現代を映す鏡のように悪女を語ることの可能性を示しているように思える。

悪女に関する先行研究は多数あるものの、現在において悪女はどのような存在として受け止められているのか。それを自分の目で確かめたいと思ったのが、一つ目の理由だ。

私たちは悪女への好奇心に抗えない

二つ目の理由は、純粋に個人的な好奇心からきている。もともと筆者は、悪女を扱う小説やサブカルチャー作品が大好きなのだ。プライベートで悪女に振り回されるのは勘弁してほしいが、仮に『痴人の愛』のナオミや、『悪女について』(以上、新潮文庫)の富小路公子が目の前に現れたとしたら、その魅力に抗えるだろうか。いまいち自信がない。

もっとも、それは筆者が悪女から相手にされるような、価値が高い男性である場合のことだ。男性にとって悪女は自身を滅ぼす危険な存在であると同時に、ある種のステータスでもある。悪女に対する邪な好奇心から、この連載を読み始めた人がいたとしても、そのことをことさら恥ずかしがる必要はない。根本的には、筆者も同じ穴のムジナだ。

さらに、悪女に憧れるのは、男性だけではない。女性誌やファッション誌では、しばしば悪女の恋愛テクニックや仕事術が指南される。悪女であることは、つまり容姿や男性を誘惑する媚態に優れた女性であることの証明でもある。艶のある髪や赤い口紅、男性を惑わす気紛れな態度と計算高さといえば、峰不二子のような女性を思い浮かべるかもしれないが、そのような存在に憧れたことが女性ならば誰もが一度はあるのではないか。

そして、悪女が男性社会の作った一つの幻影であるならば、その前提を逆手にとって世の中を上手に渡っていけばいい。悪女にしてみれば、男なんてチョロいもんだ。それは、「女性としての生き方哲学」として語られることもあるし、「気軽なライフハック」として語られることもある。

ざっと、こんなところが筆者が悪女の連載を開始しようと思い立った理由だ。といっても、現段階では明確な結論があるわけではない。編集K氏に「〈まえがき〉的な文章を書いてみては?」とそそのかされたため、肩肘張って「論」的なものを展開してみたものの、実際の連載はもっと気軽なものになると思う(たぶん)。過去の作品に触れることもあるだろうし、最新のゴシップやサブカルチャーに(時には不用意に)言及することもあるだろう。田中氏の先行著作にならって「論」とせず「研究」としたのは、そういった理由からだ。

それではさっそく次回から、めくるめく悪女の世界に迫っていこう。「34歳・バツイチ・フリーライター」という、なんとも胡散臭い男の「研究」にしばしお付き合い願いたい。ミイラ取りがミイラになることだけは避けたいが、まあ、それはそれでいいかとも少し思う。

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宮崎智之

東京都出身、1982年3月生まれ。フリーライター。連載「『ロス婚』漂流記~なぜ結婚に夢も希望も持てないのか?」、連載「あなたを悩ます『めんどい人々』解析ファイル」(以上、ダイヤモンド・オンライン)、「東大卒の女子(28歳)が承認欲求を満たすために、ライブチャットで服を脱ぐまで」(Yahoo個人)など、男女の生態を暴く記事を得意としている。書籍の編集、構成も多数あり。

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