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昭和エログロサブカルvsおしゃれサブカル、少女のための『少女椿』が描いた復讐

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 物語後半、観客に「ばけもの(原作では“小人”)」と罵られたワンダー正光が観客に術をかけ、「まなざすものとまなざされるもの」「嗤うものと嗤われるもの」の関係を逆転させた後、一座が解散するところまでは原作と大きく変わらない流れですが、一座の解散以後は、映画のオリジナルシーンになります。

 原作であっけなく強盗に殺されてしまったワンダー正光ですが、映画では術を使って、「女優になりたい」というみどりちゃんの望みを叶えます。みどりちゃんが女優になりたい理由は、「女優になってみんなから大切にされたい」という承認欲求で、演技なんてまるでできないシロウトですし、おじさんの術に頼りきりで、そもそも演技なんて覚える気もなさそうです。

 術を使う度に老いていくワンダー正光ですが、みどりちゃんに一緒にいてもらうために願いを叶え続けます。そんな彼の苦労などお構いなしに、女優に飽きた彼女は、「おじさんの魔法の力が欲しい」と言い出し、ワンダーから魔法の力をもらいます。

 「おじさんから魔法を取ってしまったら、おじさんには何もなくなってしまうよ」「おじさんの魔法をみどりちゃんにあげたら、ずっとおじさんと一緒にいてくれるかい?」とみどりちゃんにすがるワンダー正光の姿は、ロマンチックラブイデオロギーから見れば「プラトニック・ラブ」的な感慨があらわれるのかもしれません。

 ですが、魔法の力を失って弱くなったワンダーに、「魔法を使えないんじゃ、おじさんと一緒にいる意味がないじゃない」と言ってのけるみどりちゃんの立場から見れば、ワンダーは自分にとって都合の良い大人の一人に過ぎず、客体としてまなざされる己をエサに能力を利用する、まなざしを換金(自己利益に)する援助交際のようなものです。これは、客体として虐げられてきた少女の、客体としての復讐と読むこともできます。

 原作にはない、「客体として虐げられてきた少女の客体としての復讐」というオリジナルシーンがあることによって、実写映画版『少女椿』は、原作よりも、「少女のための『少女椿』」という要素を強く帯びます。

 ワンダー正光が魔法の力を使い果たし、命も尽きると、「女優みどり」も消えて、物語は原作ラストに繋がります。「客体として虐げられてきた少女の客体としての復讐」はあっけなくついえ、他者に頼り依存するだけで自分の道を自分で切り開くことをしなかった少女みどりちゃんは、原作同様幸せになることはできませんが、実写映画版『少女椿』の、少女のための『少女椿』とも言うべき改変と、それを支持する若い女性達の関係は大変興味深いです。

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柴田英里

現代美術作家、文筆家。彫刻史において蔑ろにされてきた装飾性と、彫刻身体の攪乱と拡張をメインテーマに活動しています。Book Newsサイトにて『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』を不定期で連載中。好きな肉は牛と馬、好きなエナジードリンクはオロナミンCとレッドブルです。現在、様々なマイノリティーの為のアートイベント「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」の映像・記録誌をつくるためにCAMPFIREにてクラウドファンディングを実施中。

@erishibata

「マイノリティー・アートポリティクス・アカデミー(MAPA)」