『an・an』が提唱する強い悪女像
これらの悪女像に共通点して見られるのは、男性中心社会を前提としていることだ。社会が男を中心に回っているなら、その前提を逆手にとって世の中を上手に渡っていけばいい。悪女にしてみれば、男なんてチョロいもんである。だから、過剰な「逸脱」はしない。既存の社会から逸脱してしまったり、壊したりしてしまっては「ハック」にならないからだ。
「男から利益を得る」という発想は、「男が利益を独占している」ということの裏返しにほかならない。それに対するレジスタンスとして、悪女的な生き方が提示される。「利益をこっちにもよこせよ、おら!」というわけだ。つまり、「男が利益を独占している社会構造」の転覆を狙うのではなく、あくまで既存ルールの隙をついた、ゲリラ的な局地戦を仕掛けている。男からの眼差しを内面化し、それに過剰な抵抗をしない作法だと言えそうである。
もちろん、こうした悪女像に対して反感を持つ者もいるだろう。「悪女」なら男からの眼差しを気にせずに、もっと強く生きるべきだ。男に媚びる必要なんてない、と。そのような強い悪女像を打ち出してきた雑誌の一つに、ご存知、『an・an』(マガジンハウス)がある。
1986年4月18日号では、「少し 悪女の 感覚。」という特集で、当時の現代的な「悪女」のライフスタイルを、外国人モデルを起用したフォトグラビアとともに紹介されている。
「仕事を早めに終えて、化粧室で素早く変身。6時きっかりに、いい顔でオフィスを出たいから」
「上司にチクリと言われても平気。その分、昼間はテキパキ、無駄口なんかしないで、人一倍働いているって自信を持って言えるから」
「男に独占されたくないし、ちやほやされるのもまっぴら。好きな男がこっち向くと、急にプイッと無視したくなることもよくある」
「男のために料理をしない、そんな女になる」
「ブーブー、とクラクションの音。2回だけしか鳴らさないでね、と私の言いつけを守る彼を罰として15分待たせる」
「5つ星のホテルのダブルとシングルの2つの部屋。シングルは私の名前で予約する。(中略)その気にならなければ、彼を置いて帰る、そんなこともできるように私だけの部屋をいつもリザーブしておく」
「男と一緒に朝を迎えない」
なんとも、ずいぶんな「悪女」である。クラクションのくだりに至っては、なぜ言いつけを守ったのに、罰として15分も待たされてしまうのか、わけがわからない。しかし、おそらく伝えたいメッセージとしては、「男の眼差しに絡め取られるな」ということだろう。
また、同号では、「私なら、こんな悪女になりたい。」というコーナーもあり、女優や作家が自身の悪女像を披露している。女優の秋吉久美子は、男の前で、そそるようなポーズを取るような「悪女」を「いわば日帰りコースの悪女」と批判し、「本当の悪女ならば、男の眼を意識なんてせずに、自分の世界で生きているはず」としている。さらに、1998年8月7日号では、作詞家・プロデューサーの秋元康が「普通の女の子って、これはいけない、あれもルール違反だとかいって、気持ちや願望を押さえ込んでしまう。(中略)魔性の女はそれと正反対のことをしているから目立つ、だからモテるんですよ」と自説を述べている。
男に媚びるのは、「日帰りコース」の甘ちゃん「悪女」であって、本格派は違う。男の眼を意識せずに、我が道をいくのが本当の「悪女」なのだ。しかし、なぜ「自分の世界で生きる」ことが悪なのだろうか。やはり、ここにもなにか抑圧的なものを感じざるを得ない。
つまり、これも男性中心社会の転覆を狙ったものではない。構造を無視する。無化する。男性中心の構造をないものとして扱って、自由に生きる。しかし、根本的な問題とは対決せず、構造そのものは別の場所で温存されたままなのである。「悪女」に、男性中心社会の転覆を狙う「革命型」、男の眼差しを内面化する「順応型」、男の眼差しを無視する「逃避型」の3タイプがあるとするならば、後の2タイプが女性誌の推す悪女的な生き方なのだ。
悪女性の解放は、ほどよくが一番。これが女性誌のたどり着いた、現代的な悪女像である。
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