からだじゅうのホックが外れている感じだ
なぜ、男たちは園子に恐怖を覚えるのか。それは、園子が驚くほど「なにもやっていない」からだ。女学校時代に教師の畑中と秘密の関係を持った際も、雨宮と結婚した際も、画家志望の正田に言い寄られた際も、園子は自分から能動的な行動に出ていない。そんな園子を越智は「きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ」と表現している。
越智と不倫関係に至る程ですら、雨宮に気持ちを伝えていないのにもかかわらず、雨宮は「みなまで言うな」とばかりに園子の気持ちを察して、不倫への手はずを整えていく。
こうした唐突な展開に観客は違和感を覚えたかもしれないが、原作でもだいたい同じだ。むしろ、映画のほうが親切に描写しており、原作のほうが「なにもやってなさ」が際立つ。その「なにもやっていなさ」が、同作を現代にも通じる文学作品たらしめていると言える。
原作では、畑中を巡って、こんな描写がある。若い男の欲情と、少女の好奇心により二人は肌を触れ合わすのだが、決して“行為”には及ばない。若い男にとっては、拷問に近い状況だ。しかし、畑中はそんな状況に耐え、園子の「純潔」を守る使命感から、「どんなに苦しくても何もしない。きみはきれいにしておかなければ……」と絞り出すように言う。
さて、園子少女は、そんな畑中に惚れ直しでもしたのだろうか。現実はそんなに甘くない。
「私はふきだしそうになった。男の身勝手さ、畑中というこの男は軽率にも、私を愛していると錯覚しはじめたのだろうか」
一生懸命に我慢した割には、さんざんな言われようである。
しかし、「園子は冷たい」と感じるのは、筆者が男だからであろう。「お花畑」とは女の心象を形容する言葉として使われがちだが、舞い上がっているのは若い女と密事を重ねるうちに軽率にも本気になってしまった畑中のほうで、園子は欲望、好奇心と愛の間にある一線を冷静に見つめているのだ。畑中は、脳内で勝手に園子少女との物語を作り上げていたのである。