私は顔立ちやスタイルをけなされるより、アソコをけなされるほうがよほど傷つく気がします。なぜでしょうね。特に女性は幼いころから外見を評価されつづけてきて、私たちもそれに慣れています(それがいいことだとは思わないけど)が、女性器を人から評価される機会はずっと少なく、慣れることがないからでしょうか。加えて、もっともプライベートな部分だけに、女性器の評価=自分そのものの評価と思ってしまうからでしょうか。
女性器コンプレックスを生むものとして、私は「メディアの影響」も無視できないと考えます。女性誌のセックス特集やウェブサイトで「あんまり毛深いと、男性にドン引きされちゃうよ♥」「男性に嫌われないよう、アソコをしっかり洗いましょう」と呼びかける記事をみると「女性器は、いったい誰のものなんだろう?」と首をかしげてしまいます。
さらに、いまは女性でもネットをとおしてアダルトコンテンツにアクセスし、無修正の動画も簡単に視聴できる時代ですから、そこで見る女性の性器と自分のものとを比較してコンプレックスを根深くすることも考えられます。私もAVを見ているとつい、女優さんの黒ずみや小陰唇をチェックしちゃうんですよね。自分がコンプレックスに思っている場所に、自然と注目してしまうのです。で、「あ~、なんでこの人はこんなに黒ずみがないんだろう」「もしかしてビラビラは手術で切ってるのかな? いいな~」と悶々とするのです。
身体を変え、心も変える。
同書では、約9割の女性が自分の性器を見たことがないという調査結果も報告されていました。それでは、自分のものだとは思えないのも道理です。でも女性が女性器を見ないことにも社会的背景があるはずで、それはほかでもなく「女性器は忌むべきもの」という思想が脈々と受け継がれてきているからであり、21世紀になってなお社会のなかで「女性器は、女性自身の身体の一部」と肯定されることがないからではないでしょうか。
本書では、女性器コンプレックスが生まれる背景については、そこまで踏み込んで語られていません。もしかすると著者の喜田先生は、そのコンプレックス自体がなくなることはないと思われているのかもしれません。まあ、私もそう思いますけどね。その代わり、本来ならコンプレックスを持つ必要のない人までコンプレックスを持ち、思うように生きられない現状を打開したいと考えられているようで、カウンセリングを重ね、なぜコンプレックスを克服したいのか、その人がよりよく生きられる女性器とはどういうものなのかを本人と一緒に熟考したうえで、適切な処置を提案するのが喜田先生の基本姿勢です。
悩みが深い人に対して、「気にしすぎだよ」「別に普通だよ」というのはあまり意味がないことだというのはよくわかります。第一、いまはそれを解消するための方法があるのです。婦人科形成では、大きすぎる小陰唇を切ったり、膣にヒアルロン酸を注入したり、外科手術によって悩みそのものを取り除きます。心を変えるのはむずかしいし時間がかかる、身体を変えるほうが手っ取り早いし、身体を変えることで心も変えられる……。それによって恋人ができたり、子どもを授かったり、人生まで変わった人もいるのですから、実ににすばらしい! 女性器コンプレックスという重たくて邪魔な鎧を脱ぎ捨て、人生が身軽になった女性たちがうらやましいぐらいです。
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