これらを経て、わたしは森達也さんの著書「放送禁止歌」を読んだ時のことを思い出しました。
森達也著「放送禁止歌」知恵の森
森さんが、テレビで放送してはいけない歌……「放送禁止歌」について調べた結果、
規制の実体は民放連が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」ではあっても、
その指定曲一覧表は1983年以降更新されていないこと、
更に「放送禁止」とされていた歌の多くが実は「指定外」だったこと、
仮にその要注意指定を無視して放送しても刑罰も特になかったことなどがわかりました。
ただ放送しても大丈夫だけど、 もしも視聴者から文句がきたら面倒だから放送するのは辞めとこう、というひよった手段が積み重なった末、「放送してはいけない歌」になってしまったらしいのです。
要するに「ダメ」と思いこんでる人達の脳内で勝手に生まれてしまったシステムなのです。
わたしはこれを読んで腹がたったのでした。
まんこと言ってはならないシステムと同じじゃねーか!!!
本の中で特に印象深かったのは、被差別部落の歌であるという「竹田の子守唄」を放送すると部落解放同盟から抗議がくるのでNG、というイメージが業界内で根付いていたのに、実際に部落解放同盟に話を聞きにいったところ、
「正式に抗議したことなど一切無い、むしろいい曲だから放送してほしいのに」
と言われたエピソードです。
むしろ差別問題というだけで引っこめられると問題自体が隠されてしまう、と解放同盟の担当の方も本の中で危惧されていました。
タブーにまつわる歌や用語だからとびびって取り上げないのは、人から「何故それがタブーなのか」を考える機会をも奪うのです。
これは「差別」よりもっとひどい事とも言えるのではないでしょうか?
わたしは「まんこ」というと怒ったり恐れたりする人たちに、なぜ怒るのか、その理由についてきちんと考えてほしいとずっと思ってきました。
自分の頭で考えれば、それがどこかおかしな事だと気付くはずです。
そんなわたし自身が、(川を使用したら怒られるかも)と確認もせずに思いこんでいたことが、とても情けないです。
そして、本来は川の使用は国民の自由なはずなのに、責任をとらされるのがイヤで、やめてほしいという人たちの、実に日本的な「ことなかれ体質」にうんざりしました。
もしもどこかから苦情がきても「そもそも川の使用は個人の自由」、「あのバカな人が勝手にやったんだからうちは関係ない」などと毅然と対応すれば済む話ではないでしょうか。
苦情そのものに怯えてしまうなんて、かっこ悪いぜ!
でも、だからこそ、そういう場所で敢えてまんこのボート進水式を敢行することに意義がある! と、わたしは改めて思い直し、心とまんこをキュキュッと引き締めたのでした。
■ろくでなし子 /漫画家。日本性器のアート協会会員。自らの女性器を型どりデコレーションした立体作品「デコまん」造形作家。著書に『デコまん』(ぶんか社刊)。『女子校あるある』(彩図社刊)
ろくでなし子ホームページ http://6d745.com/
日本性器のアート協会ホームページhttp://www.jsoa.jp/
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