連載

名作ロマンポルノを観てセックスに愛もムードも絶頂も不要だった時代を想う

【この記事のキーワード】

 ほとんどのセックスは「なんとなく」始まります。ムードもへったくれもないのです。男に手を伸ばされると女性は決まってイヤイヤといい始めユルく拒否するのですが、それでも「なんとなく」男の身体を受け入れます。イヤよイヤよも好きのうち、というのが観客である男性の劣情をそそる、唯一の“ムードらしきもの”となっています(イヤよイヤよの表現の是非はここでは問いません)。

 ロマンチックな愛がない、ムードもない、女性のオーガズムがあり男性の射精があってセックスが終わるという“セックスのフォーマット”もない、ユルくはじまってユルく終わるセックスは、日常のなかに自然と溶け込んでいます。3Pをしていても、「なんとなくそうなっちゃった」というユルい雰囲気で、殊更アブノーマルプレイに興じているわけではないのです。

害のない男を性的に共有する

 男にも女にも性的に受け入れられる正太郎は、実に不思議な存在です。演じている役者さんは、いまの時代の私たちの目には立派な青年に映りますが、劇中では「毛がまったくない、スベスベで中性的な脚」や「まだ精通していない」ということで子どもとして扱われます。そして子どもらしい無邪気さでもってオトナの布団に潜り込み、ちゃっかりセックスするのです。

 正太郎は、オトナの男にも女にも害することのない存在です。子どもであり、妊娠させる能力がないのですから。だからオトナの男女は安心して正太郎を性的に共有し、ある種のポリアモリー(同時に複数の人と交際する恋愛)的関係を築いていきます。といっても、なんともユルいポリアモリーなのですが。

 私は彼を見て、いまをときめくエロメン・一徹さんを連想しました。かつて何かのインタビューで、SILK LABOのプロデューサーさんが一徹さんを抜擢した理由を、「女性に対して無害そうだったから」と話されているのを読んだことがあるのです。女性は気持ちよくしてくれる男より、自分を害することのない男をまずは受け入れたいということでしょうか。いえ、正太郎も一徹さんもちゃんと女性を気持ちよくもするんですけどね。

 そんな正太郎が「太鼓持ちになる」といい出したのは、ごく自然なことなのでしょう。太鼓持持ちとは、いまでは「媚びへつらう人」のように使われますがかつては宴席に出て客の遊びに興を添える“職業”として成立していたもので、幇間(ほうかん)ともいわれました。客(男)と芸者(女)のいるお座敷で、両者の関係を害することなく笑わせ、座を盛り上げる……それがセックスかお座敷かの違いだけで、正太郎がやっていることは常に同じなのかもしれません。

 セックスは愛する人と、セックスはムードがなければ、セックスはイカないと完結しない……この映画の製作から40年以上が経った私たちのセックスはとても不自由なのではないか、そんなふうに思えてきました。じゃあ、この大正~昭和初期のセックスに戻ればいいのかというと、女性の立場が非常に弱く“対等なセックス”とはほど遠いので遠慮しますが(だからこそ正太郎が貴重なわけで)、セックスにたくさんつけられてしまった付加価値がどうしようもなく邪魔だと感じてしまうのでした。

 

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桃子

オトナのオモチャ約200種を所有し、それらを試しては、使用感をブログにつづるとともに、グッズを使ったラブコミュニケーションの楽しさを発信中。著書『今夜、コレを試します(OL桃子のオモチャ日記)』ブックマン社。

@_momoco_

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