家族観インタビューCASE2・ジュンペイさんの第2話です。初回は、「男と女が惹かれあい、告白して付き合って愛し合う」現象がさも自明のこととされ、規範として強制されている社会への違和感についてお話してきました。今回は、ジュンペイさんが、レズビアンカップルへの精子提供というかたちでの生殖を試みる理由、価値観などについて伺っています。
Family? CASE2 セックスをしなくても生殖はできる。レズビアンカップルに精子提供を試みるジュンペイさん」~第二章~(取材日:2013年10月)
▼前編/「“異性”を好きになって当然だ、お前はどの“異性”が好きなのだ」と当然のように問う社会のおかしさ
“生殖”をとりまくようにして存在する“性愛”や“セックス”
――「プロジェクトP」というコミュニティにかかわる中で、多様なセクシュアリティが存在することの実感を得て、ヘテロ社会に対する問題意識が高まったジュンペイさん。ヘテロ社会のしくみ・信仰の肝となっているのが“生殖”だとおっしゃいましたが、どうしてそう考えるのですか?
ジュンペイさん(以下、J) そう考えるようになったのは、ジル・ドゥルーズの思想を理系の文脈で展開した書籍をいくつか読んだことがきっかけ。具体的には、小泉義之さんの著した『ドゥルーズの哲学――生命・自然・未来のために』(講談社現代新書)や『生殖の哲学』(河出書房新社)。ものすごく簡略化すると「生殖補助技術が発展してきたので、女性たちが自分の体細胞クローンを作って産めば一世代で男性を殺すことなく絶滅させることができる。動物と人間の融合胚の作出も射程に入ってきた。そんな世界がきたことを前向きに考えたい」みたいなことが書いてあるんだけど、人間が無性生殖や遺伝子操作・融合胚作出の力を手に入れたというのは、確かに大きいと思った。
僕自身、大学の専攻で生物学とか進化学とかをかじってたこともあって、人間の家族や性愛の姿って奇妙だし、けったいだなぁと思っていた。人間の家族とか性愛が存在しているのにはなにか由来があるはずというか、植物みたいに無性生殖が最初から可能だったら今の人間がやってる性愛なんてものは生まれないよね。猫とかもそうだけど多くの哺乳類ではオスは種付けのときだけ必要で、母子は子育て期間だけの繋がりで、子が一人前になると親子は縄張り争いをするライバルにもなり得る。じゃあ、人間の家族とか性愛の発生には何が関係しているのかっていうと、どうやら、超未熟児として生まれる新生児を保育する“集団”として生活しながら進化をしてきたことが関係あるようだと。寂しさとかもそれを促すための感情っていうか人間を協働させるための原動力として形作られたのかもしれない……と思ってるんだけど、僕はそのことはすごく良いことだと思っていて、寂しいって感情は辛いけど、おかげで人と会う気になるし、人と会うことを嬉しいと感じるから。全く僕らが植物や猫みたいな進化を遂げてきていたら寂しいと思うことも無かったし、植物や猫のようになりたいと思ったこともあるけど、やっぱり村や家族で進化を遂げてきた人間として生まれて良かったと思えることも沢山ある。
ただまぁ、生物学とかのそういう進化の話って大雑把な傾向でしかないから、個人とか個体が今何をしたいかとかは全く別のことだと思うんだよね。だからこそ、その大雑把な傾向の中で「異性間で子供を作ってきたから」とか、「本来人間は集団で生きていくものだ」とか、そういう理由をつけて個人を抑圧するやり方が僕は大嫌い。後から振り返って得た考え方で、今これからを縛ろうとすることが、正しいとは思えない。別に、異性間で子供を作らなくてもいいし、山ん中に一人籠って生活してもいいじゃんって。