生きる意味、希望としての「生殖」
J でも、そもそも「生殖」に執着しない人だってもちろんいる。最近、みんなは生きる意味とか目的とか、生きる充実感を、実際はどこから引き出してんのかなぁって気になるんだよね。立派に生きて立派に死にたいとか、ただそれだけなのかもしれないし、僕が思ってるように、自分の生が中断されることへの不思議や恐怖が根底にあるのかもしれないし、全く別の何かがある人もいるんだろうけど。そこらへんを「お前が生きたことも満更じゃないよ。意味があったんだよ」ってなぐさめてくれるのが、「生殖」だと僕が思っているのは、次世代の社会・文化を生み育てることや、作品を作ったり教育に熱を注いだり、ナショナリズムに殉じることとかも一種の生殖だと言えると思うから。
――私もそれはすごい不思議なんです。生きることを頑張る理由、みんなはどんなことなんだろうって。私はこれからも生きていくならアートとか文化に携わっていきたいと思っているのですが、そのモチベーションには、社会の次世代に対して、色んな可能性や選択肢を用意できたら、という思いが関係しています。可能性や選択の自由のためには、“イマジネーション”が鍵で、それを妨げる“しがらみ”をほぐしたり、無くしたりするためには「“文化”しかない!!」と、私はとても強く思っていて、それに突き動かされてるんです。そしてその社会の次世代という大きな対象の中に“たまたま”でも、自分の子供がいると、更にその必要性が強まるっていうか、原動力も説得力も増すと思っていて、だから恋愛にあまり意欲的じゃなくても、結婚に意味を見出せなくても、子供が欲しかった。生きる理由って、私にはそれ以外思いつかないから。
けど、子孫を残すことや誰かを育てること、誰かの成長に寄り添うようなことにも興味がなくて、社会や人にバトンを渡したり、作品や名声なんかを残したりすることに対しても関心が無い場合は、何を理由に今を頑張るのか。何だかんだで、私が仲の良い友人とか身近には、あまりそういう「こいつマジで何のために生きてるんだろう……?」みたいなサンプルがいないので、なかなか知る機会がないんです。でも、社会にはそういう大きな意味での「生殖」に執着しない人もたくさんいるはずで。私には、その人たちが尋常じゃなくたくましい、強い人なのかもしれないと思えるんです。だとすると、自分がすごい弱いんだなって……。
J そうそう。僕も、こういう考えをしてるってことは、自分はすごい気が弱いんだなって思うよ(笑)。その尋常じゃない強さみたいなのって、僕は子供がみんなそうだと思ってる。なんていうか、みんな子供のときは無敵な感じがあるでしょ? 小学生くらいまでかな、自分だけで充足できる強さみたいなの。
――ありましたね、無敵感は。そう思ったら、生殖の持つ意味に気付いてない“からこそ”強いのかも。「鈍感力」という言葉も流行したけれど、無敵時代のまま大人になったみたいな強さというか、鈍いことによる強さみたいなものは存在しますよね。私は思春期に過剰にセンシティブになってしまって、そのことで「当たり前だと思ってた色々が、別に当たり前じゃないじゃん」と気付けたけれど、当たり前なものなんてないと気付いたことで世界の不安定さや脆さも感じて、結果的に生きることへの恐れや弱さを持ってしまったかもしれないですから。
J 僕も鬱病で、その「弱さ」がはっきりしたと思う。ただ、仕事にも性愛にも停滞感を引きずっている時期がずっと続いていたけれど、性愛に関しては、精子提供という行動によって、何か光が差したような、突破口になり得るような、そんな気がしている。なんか子供って、一般的な夫婦間でも「孕んでない方」の人間は実感がなかなかわかないよね。産まれてから育てていくうちに実感が出てくるもんでしょ? だったら、よそから転がり込んできても一緒なんじゃないか。だから、今やってる精子提供活動について最初に紹介されたときも是非よろしくって進んでお願いしたし、前向きにやっていこうって思えてる。
<後編へ続きます>