嫌いな女は、自分の嫌いな部分を持っている
なぜ、そのような現象が発生するのか。『週刊女性』(主婦と生活社)2015年8月4日号に掲載された特集「女に好かれる女、女に嫌われる女」のなかで、漫画家の倉田真由美は「女性が選ぶ本当に嫌いな女性は、自分の恥ずかしい部分を兼ねている」という金言を残している。つまり、目を背けたい自身の性格や特徴に対して、同族嫌悪を抱く女が多いのである。
そう考えると、ぶりっ子、女の武器といった“女性性”をあざとく発揮する言動や、「女性の権利を主張する」行為に対して反感が集まりやすいのもうなずける。自身の中の女性性に対する複雑な感情が、相手が発揮する女性性に敏感に反応してしまうのだ。普段は押し込めている「自分の恥ずかしい部分」を臆面もなく出している女が痛々しい。相手を嫌う要素が、自分を映す目を背けたい一面だからこそ、「自分を見る目は甘い」という矛盾した状況に陥る。
SNSで女子力をアピールして、弟を「イケメン彼氏」と紹介し、やたら長いハッシュタグをつけたくなってしまう自分がどこかにいる。しかし、それは恥ずかしいことであり、それを堂々とやる女はどうかしていると感じる。そうした抑圧から解放されて思うままに投稿できるようになれば、「#今日も #楽しかった #HAPPY #LOVE」な毎日が送れるかもしれない。
もちろん、これは一つの仮説に過ぎないし、同族嫌悪だけではないことは承知しているが、どうしてその性格や特徴を「自分の恥ずかしい部分」と感じてしまうのかについて分析することは、現代の女性が置かれている環境を考えるうえで意味がある。逆の見方をすれば、女性が「どんな自分の一面を恥ずかしいと思っているか」を知るパロメーターになるからだ。
「どんな女が嫌い?」と質問することは、「自分のどんな部分が嫌い」と聞いていることとイコールであり、「女が嫌いな女」とは、自分の恥ずかしい部分を持っている存在なのである。
「女が嫌いな女」が、悪い女という意味での「悪女」を意味するのだとしたら、「悪女」は自身のなかにこそ存在する。その悪の基準(プレジデント風に言うとモラル)は、どういったものに規定されているのか。どのような外的要因があり、どのようにしてそれが内在化されていくのか。そういったことについて考えることが、当連載を執筆する目的の一つである。
(宮崎智之)