前回、前々回と、このコラムでは虐待された人はどうやってその環境から脱出できるか、また、虐待された人はどうすれば「助かる」のか、というテーマについて書かせていただきました。
前回のコラムでは、虐待家庭を抜け出し、自らの努力によって「助かった」例として『プレシャス』(2009年)という映画について取り上げさせていただきました。
逆に今回は、虐待を受け「助かる」ことができなかった人を描いた映画をご紹介させてください。『サイコ』(1960年)です。
この映画は、ソウル・バスがデザインした映画オープニングのモーショングラフィックが、あまりにも有名です。線とテキストが横方向と縦方向にするする移動するアニメーションは、シンプルなのに力強く、見る者の心を打ちます。横方向に移動する線は囚人服や窓をおおうブラインドに、縦方向に移動する線は音の波形やビルの町並みなど、見る人の心理状態によっていろいろなものに見える趣向です。人間の心理について描いた『サイコ』という映画の内容を、見事にデザイン化したオープニングです。
映画『サイコ』
マリオン(ジャネット・リー)は職場のお金を横領し、車で隣の州に住む恋人の元に向かう道中、一泊しようと立ち寄った「ベイツ・モーテル」にてオーナーのノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)と出会います。
非常に興味深いストーリーなのですが、ここまでは『サイコ』において長い前フリにすぎません。映画冒頭で一番出番が多いマリオンが主人公かと思わせておいて、この映画の本当の主人公は、ノーマンです。
ノーマン
このコラムの主旨である虐待環境から抜け出せずに「助かる」ことができなかった人というのも、ノーマンのことです。
ノーマンはベイツ・モーテルの裏手にそびえ立つ、立派だけれど朽ち果てたような家に、年老いた母親と2人で暮らしていました。この母親が、毒母です。
夕飯を食べそこねたマリオンに、簡単な夜食を運ぶノーマンに対し「下品な女は連れ込めませんと言ってこい!」と、モーテルにまで聞こえるような大声でノーマンを怒鳴りつけます。そんなノーマンに対し、気の毒に思ったマリオンは「お母さんをどこか施設に預ければ?」と言うのですが、「母さんをどこかに預けるなんて、できる訳がない!」と突然怒り出すノーマン。
その夜マリオンは、モーテルでシャワー中に、刃物を持った老婆のような人物に殺されるのです。このシーンで流れる音楽(弦楽器で一音だけ繰り返して演奏される)もあまりにも有名です。
前回のコラムで書いた映画『プレシャス』のプレシャスさんは、16歳で毒母が支配する家から逃げ出し、自活を始めました。
対してノーマンは、見たところ20代半ば。老いた母親の世話とモーテルの管理に追われ、友達も作らず「男にとって最良の親友は、母親ですよ」言い切るほど、毒母に洗脳されています。「ここから逃げ出したくないか?」と聞かれると、「ここは僕の唯一の世界だし、僕と母はとても幸せだったんだ」と答えます。
親を捨ててもいい
要するにノーマンは、現実をありのままに受け入れるのを拒否し続けている人なのだと思います。支配的で暴力的な母親を、ありのままに捉えるのではなく、自分の歪んだフィルターを通して見続けているから、大人になっても、母親のことを「親友」と呼んだり、自分と母は「幸せだった」と言い切るのです。
無力な子供のうちは、絶対的庇護者である親のことを、無理にでも良く思うことでなんとか虐待的な環境と折り合いをつけるのもサバイバル術のひとつだと思います。けれど、ある程度の年齢になったら……そう、例えば、プレシャスさんのように16歳くらいになったなら、虐待的な親をありのままに見たうえで、その環境にとどまるかどうするか、自分で決めてもいいのです。
平たく言うと、ある程度大人になって、親が自分を毒していると思ったら、親を捨てても、いいと私は思うのです。
現実をありのままに受け入れず精神を崩壊させたノーマン
ノーマンはそれをしなかったが為に、母親の毒に取り込まれてしまい、精神を崩壊させます。ノーマンは、母親の人格と自分の人格の境界があいまいな状態で、連続犯罪を起こしてしまいます。
映画では、ノーマンは車を2台、モーテルの裏にある沼に沈めるシーンがありますが、これは実にノーマンらしいやり方です。
大きなアメ車を何台も飲み込むことができる不気味で巨大な沼は、ノーマンの無意識をそのまま具現化しています。自分にとって不都合な真実とは決して向き合うことはせずに、無意識の奥底に沈め、忘却する。そして、自分にとって都合のいい現実を作り出すためには、自身の人格さえ崩壊させてしまう。そういう風にしか現実世界で生きていけなくなってしまったノーマンの哀れな姿が、映画ラストに映し出されます。
ノーマンは、虐待的な環境に自ら残ることを選択すると、どのような弊害があるか私たちに教えてくれる、貴重な反面教師です。ラストシーン、母親の頭蓋骨の映像と重なってにやりと笑うノーマンは、「毒母の言いなりになっていたら、オレみたいになっちゃうんだぞ」と言っているように、私には見えてなりません。
■歯グキ露出狂/ テレビを持っていた頃も、観るのは朝の天気予報くらい、ということから推察されるように、あまりテレビとは良好な関係を築けていなかったが、地デジ化以降、それすらも放棄。テレビを所有しないまま、2年が過ぎた。2013年8月、仕事の為ようやくテレビを導入した。
連載【月9と眼鏡とリモコンと】