性的に「私はS、Mのどちらだろう」と掘り下げて考える機会は案外、少なと感じます。もちろん、どちらでもない、またはそのときのパートナーによるという結論もあるでしょう。
私自身は20歳を少しすぎたころ、ベッド上で男性に「罵りながら、俺のケツをぶってくれ!」といわれて、さ~っと気持ちが引いたことがあります。その人間性をまだよく知らない男性を罵るのはむずかしく(なのにセックスはしようとしたのか、というツッコミはご遠慮くださいw)、ましておしりをぶつのはもっとハードルが高い……。そのとき私のなかにふと「私はMなんだな」という自認が降りてきたのです。
そんな程度で、と思われるかもしれません。たしかに言葉責めも打擲もSMの一部でしかないです。が、これはあくまできっかけ。その後、文学作品などいろんなものでSMの一端をかいま見、同時に自分自身もさまざまな体験をして“わりとM”と自認するに至りました。
『マゾ絶頂に女性を導く 緊縛方法とその実践』(三和出版)は、ページをめくるたびにその自認を強めてくれました。女性縛師・荊子(いばらこ)さんによる緊縛のハウツー本で、タイトルを見てもわかるとおり本来はS男性をターゲットに制作されたものですが、その内容はM気質の女性を代弁してくれるものでもあるのです。「うんうん、こういうことなのよ!」と。
“前手縛り”“後手縛り”といった基本から、露出デートのときの“股菱縄縛り”といった応用編まで緊縛好きのツボを抑えたラインナップが組まれ、その手順が解説されています。
縛りが「作業」になっていないか
そのなかで荊子さんはたびたびS男性に「作業的になってはいけない」と呼びかけ、いかにしてM女性の身体と心を焦らすかを説きます。そうなんですよね~、黙々と縛られると「この人、自分のためだけに縛ってるな」「私はそれにつき合わされているな」と気持ちがトーンダウン。そして縛り終えたからといっていきなり性器に触れられても、「いやいやいや、そうじゃなくて!」といいたくなります。
荊子さんは、次のように話します。
荊子さん「いま緊縛は一部でブームとなっているので、ちょっとやってみようと始める人も多いのですが、少しテクニックを身につけた途端、『俺ってすごい』とドヤるう男性がいます。そうなると自分しか見えなくなるから、縛りが“作業”になってしまう。写真作品を撮影するためならともかく、セックスの前戯として、あるいはプレイの一部として緊縛を取り入れるときは、当然のことながら相手がいます。相手を置いてきぼりにして手だけ動かすと、その縛りが相手にとって苦しいかったり痛かったりしても気づかない……これは“緊縛”ではないと私は思うんです」
上手に縛られたい、と思う以上に、縛られることで何かを感じたいと思うのがM女性なのでしょう。一連の解説を見ているうちに、縛師とは伝統工芸品の職人さんに近いのではないかと思えてきました。
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