連載

産まないセックスで消えたい女による、日本の愛とセックス分断考

【この記事のキーワード】

ホアという空っぽの筒

 恋人を追いかけて北京からパリにやって来たホアは、その男に捨てられて傷心のまま街を彷徨う。あてどなく歩く道すがら、建設工のマチューと出会い、恋に落ち、暴力的な激しいセックスを重ねていく。ホアは危うい。儚げで、陰気で、とらえどころがない。セックスには夢中で耽溺する。そんな彼女をマチューは「おれの可愛いあばずれ」と呼ぶ。

 2人の恋愛は、愛なのか。セックスの快楽のみの結びつきなのか。どちらともつかない性愛のはざまで2人はどうしようもなく惹かれ合い、寄り添いながら互いを傷つける。マチューの言動に何度も傷つき、別れを心に決めたにも関わらずセックスにのめりこむホアは、喘ぎながら、泣きながら、言う。「どうしよう、愛している」と。

 理性や理屈ではコントロールできない性愛の情感に震える。本当にどうしようもなく切ない。愛とセックスを完全に乖離させたいと願うほどの葛藤を伴う性愛ほど苦しく甘美なものはない。

 北京とパリ、愛、セックス、孤独、暴力、人種、文化。ホアはそれぞれ異なるもののはざまを浮遊するようにただよう。マチュー以外の何人もの男たちの間をも彷徨う。常に実態のない浮遊とも喪失ともつかない静寂を身にまとう彼女には、複数の男と何度セックスを重ねても拭えない孤独の影がちらつく。男女はセックスでは溶け合えない。一部がつながっていようとも、いつまでたっても2人は個体のままだ。その寂しさに、ホアの気配はよく似ている。

 私にはホアが底なしの空っぽの筒に見える。私は空の筒になって忘我する快楽を望むが、それは私の中に確固たる私が詰まっている証しである。ホアには予め、愛とセックスを受け入れてようやく一個体としての存在を確立するための空洞が備わっている。彼女はそこに男を招き入れる。支配的なマチューによる暴力的なセックスを詰め込み、愛と傷で隙間を満たす。無論、満たされない。ホアの筒には底がない。

 男たちは空洞の女を放っておかない。一向に満たされないホアの筒と付き合ううちに夢中になり、ホアがいないと生きていけない心境に陥る。マチューは「別れるなら死ぬ」といって窓から飛び降りようとする。マチューと別れて北京に戻ったホアを元恋人は涙ながらに歓迎し、求婚する。

 性愛の熱情に身を任せ、ただよわなければ生きていけない女にとって、一定の地で、一つの戸籍の中に収まる結婚などさぞ退屈だろう。傷ついてもいいから激しいセックスを提供してくれるマチューの方が、不安定だからこその悦楽に浸る彼女なりの愛情を感じるのではないか。しかし、ホアは元恋人のプロポーズを受けるのだ。ただよい疲れて定住の地を求めたのか。おそらく違う。ホアにとっては激しいセックスも愛であり、自分を思って涙を流す男との結婚も愛だ。

 プロポーズを受けた直後、ホアは別れたマチューのもとを訪れ、再びの激しいセックスの最中に北京の恋人と結婚することを告げる。結婚するというのにわざわざ遠方の自分を訪れてセックスに没頭するホアに、呆れたマチューは「本物のあばずれだ」と呟く。肉欲として割り切れない愛情に傷ついた2人だが、マチューの愛情はそこから欠落し、ただのセックスだけが無惨に残る。ホアはどうだろうか。肉欲もまたかけがえのない愛と捉える彼女はいつも、白とも黒ともつかないはざまをただただぼんやりとただよう。

セックスという愛

 ホアは、結婚してもおそらく変わらない。おだやかな愛も得られない。「夫はいない」と嘘をついて各地の男たちのはざまを彷徨い続けるだろう。それは明らかな不貞だが、今、ここに生きる自分のきらめく恋愛のエネルギーとセックスの熱情を愛と呼ぶ女にとって流浪は宿命であり、愛に身を任せるまま、波に揺られるままに、どこかも分からぬ場所へ運ばれて行くことだろう。

 私はホアのように男を虜にする女ではないが、愛情とセックスに耽溺する感性や抗い難い感覚には共鳴する。ホアは一瞬のひらめきのような性愛のインスピレーションに忠実に行動する。私もそうありたいと心から思う。

 しかし、自分の愛の言動で傷つく人が1人でもいるならば、堪えたい。それが私の愛だ。誰かを傷つけたとしても自分の愛を信じ、貫くことも時として必要だが、自己愛の暴走によって他者を傷つけてはならない。マチューはホアがあばずれかどうかを確かめるために策を練り、ホアを傷つける。ホアはプロポーズを受けながらもマチューに抱かれに行く。そんなの全然、愛じゃない。

 愛しているなら堪えろ。愛するからこそ互いを傷つけ合うなら、生涯その相手を黙々と愛し続けたまま二度と会うな。自分の空白を埋めるために男を利用するな。性愛のひらめきを重んじる自分の気質を理解しているなら結婚契約も恋人同士の約束もするな。自由気ままな1人としてただよえ。セックスも恋愛も愛も自己愛も全部、別物だから混同するな。愛と肉欲を分別しろ。

 それが出来ないから漠然とした愛の世界をただようホアと比べて、自分の思考や感受性の傾向を理由に結婚も出産もしないと意志を固める私は、意外と理性的な人間なのではないかとさえ思えて来たが、一方、かく言う私の方が人間として不自然な枷を自分に課しているのかもしれないとも考える。

 改めて考えてみれば、セックスも恋愛も自己愛も傷も、すべて愛であり、男女のコミュニケーションの中でそれら有象無象とした感情より抽出された愛を2人は共有する。分けて考えられないからこそ愛はいつも尊く、恐ろしく、理解し難く、挑戦的だ。

 分けて考えるのは、性と恋愛と結婚が分断されがちな日本に生きる者としての特徴かもしれない。妻とはセックスレスだが風俗は大好きな夫。妻は愛していて、若い愛人に恋している男。結婚生活の中心に子供がいて、愛は冷めている仮面夫婦。どれもこれもセックスと愛と恋が分断されていて、まさしく愛がないと薄ら寂しい気持ちにさせられる状況ばかりだが、私もまたその分断思考の影響を受け、大いなる愛情を矮小化・細分化して捉えているのかもしれない。

 日本人は愛の重要なファクターであり豊かな情感を持つセックスに対し、相手を慈しむ心と柔らかい感受性をもって、もっと真剣に向き合うべきではないか。恋と性欲の直情にのみセックスが結びつき、愛はまた異なるベクトルにあるハートウォーミングな温もりと分断する風潮が、どうやら両者を両立させることは難しそうだから前者を選択し、後者を捨てると考える私のような非婚女性を誕生させたわけだから、「少子化」や「結婚率低下」を問題視する政府こそ、大いなる愛のもとに恋もセックスも統合し、セックスの感受性を学び直す情操教育を国策として推進するべきなのではないか。

 セックス担当大臣として性愛の豊かな情緒を伝達したいあまりに、国会議員になりたいとさえ思い始めたが、冗談ではなく、エロスを茶化す女性タレントの「ちょっとエッチな言動」で爆笑している場合でもなく、心の痛みをも抱擁する芳醇な愛情としてのセックスを国やメディアがきちんと伝達していかなければ、恋人や夫婦間のセックスの意欲は希薄だが性風俗はオープンで盛んと言う、トルシエもびっくりの日本の性の意識はいつまで経っても変わらず、かえって退化する一方なのではないか。

 危機感を感じる者として、1人の女として、これまでの性愛の意識を一新する必要性をひしひしと噛みしめている。大いなる愛情を獲得するために、まずは、死ぬほど好きな男とのセックスで死にたい時、この瞬間が何度でも訪れる未来を共に生きたい希望を込めて「愛している」と伝えるところから始めたい。

■林 永子(はやし・ながこ)/1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、MVを中心とした映像カルチャーを支援するべく執筆活動やイベントプロデュースを開始。現在はライター、コラムニスト、イベントオーガナイザー、司会として活動中。

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林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。