本筋は、一般的な妊娠出産育児についての、産科医療的説明です。それらについては大変わかりやすくかつ丁寧で、一般的な妊娠出産本とは一線を画していると思わせるほどです。しかし、そこへ織り交ぜられる著者の哲学が、強烈! 一部をご紹介いたしましょう。
●「分娩台に上がるという言葉には、およそ主体的な人間らしい響きはありません。そこには押し寄せる大きなものに逆らえず、医療に身を任せた非力で受け身の女性があります」
●「性的で密やかな営みであるはずのお産が、今では煌々としたライトのなか、衆人環視のもと、一定のやり方で進行していきます」
●「吉村先生と吸引や鉗子がよくないということを話していたとき、先生がこういわれました。「吸引や鉗子で生まれた子どもは人相が悪い、だからよくない」と。本当にそうだと思いました。いきなり吸引カップを頭につけられたり、固い鉗子で頭を挟まれたりして、しゃにむに引っ張りだされる子どもの痛みと気持ちを想像してみてください。どんなに驚き、そして痛いことでしょう。そうして生まれて来るとき、生まれたばかりの赤ちゃんの顔は、苦しそうに歪んでいます。人生の最初が、なぜそんな受難で始まらなければならないのでしょう」
●帝王切開については、こうです。「いきなり子宮にメスが入り、引っ張り出される赤ちゃんの身になってください。ぬくぬくとした子宮から、手術室の無影灯のもとに出され、どんなにびっくりしていることでしょう。(中略)けれども、赤ちゃんは本当はふつうに産道を通って生まれてきたいのです」
●医療介入のあるお産がほとんどである現状を憂い、こう嘆く大野氏「現代では、もはや人間はまともな生き物ではなくなってしまったのでしょうか。ふつうに考えれば、まともではなくなってしまった生き物を待ち受けているのは、滅びの道ではないでしょうか」
●帝王切開になってしまった人たちの共通点は、「生む場所選びやお産に挑む姿勢が、うかつであったから」。
●衛生面からも分娩台は不潔(いろいろな妊婦が使うし病院には細菌やウイルスが外から運ばれてくるから)
病院でのお産が女性にとっていかに不利益であるかをたたみかけ、「世の女性たちよ、分娩台から下りようではないか!」と説くのです。
そこには“理想的な家庭”しかない
私は医師に見守られる安心感から分娩台で超絶リラックスしていたため(ややメカ萌えも入っていたかも)、どの言い分にもひたすらポカーン。とりあえず安倍首相のように「印象操作だ!」とでも反論しておきましょうか。分娩台から下りろ? 私はまっぴらごめんですわ~(いや、これからもうひとり産む予定はないので、別の意味では下りたけど)。
健康上問題がなければ、妊婦が自分の好きな体勢で産める選択肢が増えるのは、とてもいいことでしょう。しかし〈母たるもの努力に努力を重ねて安産を目指し、「あたりまえ」に産む(自宅で赤ちゃんを含む家族と力を合わせ、医療介入なしに自力で産むこと)というお産のありかたこそが至高! という考え方には、ちょっとついていかれない。
ツッコみ描写が多すぎてご紹介しきれない本書でありますが、要は「主体的にお産に取り組み、医療に頼らず自力で生むべき」「赤ちゃんが生まれるのも、自宅が一番いいに決まっています」と主張。うーん。繁華街で昼夜騒がしい、同居の親が口うるさい、パワフルな上の子たちが暴れまわっている、社宅で周りの目があって落ち着けないetc. 自宅じゃなくて外でゆっくり産みたいなんて人も、いくらでもいそうですけど。
死ぬ場所についても同様のお説なのですが、暗くて寒くて湿っぽい自宅で死ぬより、病院で安心して最期の時を迎えたい人だっていそうです。誕生学なども同様ですが、ふんわりハッピーな家庭像ありきのお説を語る人たちは、こうあるべきというイメージ先行で、理想とはかけはなれた環境の家もたくさんある現実には目を向けないようです。もしくは切り捨てている。いずれも現実的ではありません。なんてことを言うと、そういう環境づくりに尽力しない姿勢で母親になろうなんて甘すぎる! と、お叱りが飛んできそうですけど。