コズメの話をさえぎって自分の話ばかり続けたり、スタジオに有名歌手と自分のレコードのどちらかがいいかの判定を強要したりなど、フローレンスは一歩間違えればウザいオバアチャンです。まして題材が「歌手なのに音痴」なので、滑稽な老女をオモチャにする悪趣味さと受け取られてしまうこともありえますが、それをすべて解決するのが、女方としての篠井の起用でした。
男性が発声することが困難なソプラノ音域を篠井が歌うことで、音痴の表現が露悪的にならず、エキセントリックな性格も「魂のすべてを歌うことに賭けている」という夢追い人としての一途さに見事に転換されていました。
当初は野心からフローレンスを利用しようとするコズメも、ひたすらに音楽を愛し夢を信じるフローレンスに親愛を寄せていきます。劇中に明言はされませんが、コズメはゲイ。ドロシーはかつて将来を期待されたダンサーでしたが結婚で夢をあきらめたため、「誰かを幸せにするために歌いたい」というフローレンスを信奉していました。
“はみ出し者”たちの姿に希望が
世間の規格からはみ出ても、ありのままの自分の望みに正直に生きるフローレンスの姿にふたりが惹かれていくさまは、現代劇での女方としての在り方を模索してきた篠井と、彼を“女優”として「欲望という名の電車」「サド侯爵夫人」など名だたる作品の主演に起用し、今作でもフローレンス役を任せた演出家・鈴木勝秀との信頼関係ともオーバーラップされます。
フローレンスのコンサートは、彼女自身による面接に合格した“ファン”しか出席できませんが、その常連として劇中で連呼されていたのが、コール・ポーター。同性愛者であることを公表していた彼がフローレンスに好意を寄せていたのは、コズモ同様、自分を偽らない彼女の姿ゆえにではないでしょうか。
音楽愛好家の批判に落ち込み(そして動揺して、自分の顔の印刷されたラベルのシェリー酒をラッパ飲みする姿が、庇護欲をそそるかわいらしさ!)ながらも、ふたりに支えられた彼女のもとに、音楽の殿堂カーネギーホールでのコンサートの依頼が届きます。1944年、戦時下でありながらチケットは即完売、そして奇跡のひとときが――。
フローレンスが歌の技量に関係なく、劇場の外のつらい現実を忘れさせる癒しになりえたのは、夢への一途な思い以上に、彼女の成功を喜ぶ周囲のひとたちの存在があったがためでした。自分が歩むのはむずかしい道を進む存在に思いを託し、追体験する……。それは、俳優と観客の関係にも、よく似ているかもしれません。
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