
女性器をアートに? Photo by Mikael Moiner from Flickr
自身の性器とのあいだに適切な距離感を保つのは、思っているよりむずかしいことです。自分の肉体の一部なのに、なぜかそうではないみたい。まずもって無理な体制をしないとじっくり見ることもままならない(鏡に映せばいいけど)。男性器を見る機会のほうがよほど多いし、私の性器もパートナーが私以上に見ているかも。
コンプレックスからも、結局のところ逃れられません。日ごろから「顔と同じく性器だって十人十色」といい、男性器に対しては「大きさって別に関係ないし!」といっているわりには、自分の性器にいまひとつ自信がない。人から否定されたり貶されたりマイナスの評価をされることには憤りを覚えますし、「私の性器は私のもの」とも思うのですが、「自信を持つ」となるとハードルの高さを感じます。幼いころから刷り込まれた社会通念は、かくも根強いのです。
性器がそれぞれであるように、それに対する思いも距離感も人それぞれ。それでも「隠すものじゃない!」「性器とは表現するもの!」といわれると、「お、おう……」と引き気味になるのはなぜでしょう。
私のSNS上に「ヴァギナドレス登場。女性器は『表現』するもの」という記事が舞い込んできました。深く考えずにクリックし、そこで目にしたドレスに正直、ぎょっとしてしまいました。
ペニスドレスだったら?
芸術性にもファッションセンスにも疎い人間ですから、その造形美について私は語るすべを持ちません。でも、そこにあるものを露悪的に感じてしまったのです。本能的といってもいいほどに。このデザイナーさんの思想や表現、挑戦を否定したいわけではなく、「私にはこれは受け入れられない」と思ったからです。
何がダメなんだろう? まず反射的に、もしこれが「男性器だったら」と考えたのです。ダイレクトにそれとわからないようデザインされていたとしても、男性の衣服に男性器がびっしりとあしらわれていたら……ないわ~~~と思いました。
意図としては、男性器と違い長い歴史のなかで女性器がずっと「猥褻なもの」「恥ずべきもの」とされ日陰に追いやられてきたことに対する異議申し立てなのでしょう。だから「ペニスファッション」と単純に比べるべきものではありませんが、それを理由に女性器をかえって特別視しているように感じられ、私のなかでは「コレじゃない感」がじわじわとふくらんでいきました。
「猥褻ではないし、恥ずべきものではない」に対してはブンブンと首を縦に振れるのですが、「隠すものではない」といわれるとその動きがピタッと止まるのです。私は隠しておきたいかな。隠すという語になんだか後ろめたい響きがあるので言い換えると、「見せなくていい」し性的なパートナー以外の人には「あえて見せたくもない」のです。理由は、最もプライベートな部分だからです。
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