旅人たちが語る事件の真相は食い違っており、ひとりは真砂が「ふたりが決闘して勝った方のものになる」と多襄丸をけしかけて夫を殺したといい、もうひとりは自身の命のために自分の貞操を差し出した夫に絶望したと語ります。三人目は、自分の恥を見てしまった武弘へ心中を迫った、と話し、真相はまさに“藪の中”。
真砂が何を考えているのか理解も共感もできないのは、何が事件の真実なのかが明示されないゆえであり、人形のように感情も色気も汲み取れない役作りへの結実は、満島がクレバーな女優である証といえるかもしれません。多襄丸のサイコパス感が下人の好青年ぶりと好対照で、同じく理解不能だった柄本の演技とともにアタマがこんがらがってくる感じも、物語にのめり込んでしまうポイントでした。
悪夢の中で下人は地獄の底の血の池にたどり着き、亡母に再会します。下人を育てるために罪を犯して地獄に落ちた母親は、哀しみつつも真砂を追って去ろうとする息子を「こんなに愛しているのに。お前に捨てられたらきっと気が狂う」と狂乱して追いかけ、下人は真砂が垂らした蜘蛛の糸にすがって逃げようとします。しかし、その糸をつかんだのは、武弘でした。
母役は、冒頭の羅生門の老婆と同じ銀粉蝶。もしかしたら老婆も、自分が生きるためといいながらそれは大切な誰かのために自分の生存も必要だったからかもしれない、と感じさせる配役の妙で、生きるということはひとそれぞれが蜘蛛の糸にからめられたように思い通りにならないものだと暗示するようでした。
満島ひかりの鼻息の荒さ
下人が羅生門で見た女は、かつて市場で出会い、救いたいと思っていた女でした。その女は生きるために罪を犯すこともいとわず、魚だといつわって蛇の干物を売るために包丁をふるいます。
外国の演出家が日本の文学作品を演出するときにがっかりさせられることが多いのが、オリエンタリズムへの過剰な幻想や傾倒です。日本人の目から見ると、ズレているし押しつけがましいしで、その演出家の起用自体に疑問を抱いてしまうものなのですが、「羅生門」にはそのストレスがなく、コンテンポラリーダンスとの融合でより芸術性の高さを引き出すことに成功していました。“オペラ”を掲げるように、作中ではダンスだけでなく歌も数多く盛り込まれています。歌手活動経験のある満島の歌は確かにうまいのですが、彼女がいちばん輝いていたのは、力任せに包丁をたたきつける場面でした。
その迫力は、生きるために必死な女の、炎のように苛烈な気性だけでなく、出演作に芸術性の高さを志向する満島の鼻息の荒さも表れているようであり、本作のヒロインを演じることの満足感のようでもあり。隠しきれない女優の“業”が、垣間見えたような気がします。
作中の内供のセリフに「炎をうちに抱えていくのは楽ではないわ」と、ありました。一般人には持て余してしまう身の内の炎も、才能ある役者やクリエーターには原動力であるもの。その炎がどこまで燃え続けるのか、どんな明かりを放つのかと、楽しみにしたいものです。
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