連載

聖なるクリスマスを一人で過ごしたい女の孤独考

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噛み合わない不毛な会話

 と、心中こっそり毒づきながらも、上記のような発言を口にする人はそもそも私の素養を知らないからこそ、そう仰るのだろうから、きちんと説明しようと考えて、真面目に返す。

「あのですね、そう寂しいものでもありませんよ。恋人や友達と遊ぶクリスマスも楽しいですが、同じくらい一人でぼんやりジーザスのことを考えながら過ごすホーリーなクリスマスも、私は好きです。お誕生日くらいはね、ファンとしてちゃんと祝わないと。特に彼は過酷な宿命を背中に負わされた男です。ちゃんと思わないと。あと、仕事も大好きです。仕事があるだけで本当にありがたい。それに、そもそも、大好きなんですよ、孤独。ライターっていう商売自体、孤独なものですから。好きじゃないとはなから職業にはできません。まあ、感受性の問題ですよ。放っておいてもらって全然大丈夫です」

 すると決まって、「またまたあ」「強がり言っちゃって」「本当は寂しいくせに」「ずっと一人の女って年を取れば取るほど、一人がいいって頑なに主張するからみっともないよね」といった定石通りの揶揄を投げつけられる。

 嘘偽りのない本心がなかなか伝わらない会話がもどかしいあまりに、「はいはい、そうです強がりました、すみません」と心にもない嘘をついて場をいなす。または戯ける。真実は己のみが知るとばかりに純潔の精神で沈黙する。そんな隠れキリシタンのごとくのいじましい女ばかりが世に蔓延るとでも思っているなら、大間違いだ。私は言う。

「人間全員が一人のクリスマスを寂しいと感じると断言するかのごとくの物言いだが、それはおまえらに限定された狭い了見でしかなく、世の中にはせめて聖夜くらいは一人で静かに過ごしたい者がいることをいい加減、認識しろ。ジーザスとは縁もゆかりもないイベント事に群れて大はしゃぎするおまえら餓鬼どもの嬉しい楽しいクリスマスには賛同できないが、そうしなければおまえら全員、寂しくて心もとなくて震えて死んじゃうならば仕方がない。たとえおまえらがこちらの強い信念を許容しなくとも、おまえら弱い群れの価値観を私は許容してやる。なんでもいいから、幸せに生きろ。その際、異なる価値観の他者の幸せも尊重しろ」

「一人で過ごすクリスマスが寂しいだと? クリスマスに恋人や友達や家族と過ごす人たち、なんだか楽しそう、いいなあ、僕も私も誰かと過ごしたいなあ、誰かと一緒にいないと置いてきぼりにされたような寂しい気分を味わってなんだか焦るなあと、周囲の雰囲気に流されるままに孤独感を煽られるおまえが若者ならば、その孤独はあまりに未成熟。自己を強く確立しろ。鍛えろ。おまえがいい歳した大人の場合、その孤独は不良物件。ただちに取り壊せ。一人でいるよりも、人とのコミュニケーションの温もりを利用して自分の空疎な心を補填しようとする泥棒根性の方がよっぽど寂しい。片腹痛い。本物の良質な孤独は何ものにも犯されない。私には強い信念がある。愛がある。一人でも全然大丈夫だ馬鹿野郎」

「おまえらやっぱりテレビの見過ぎじゃないのか。クリスマスに一人で過ごす女性タレントや芸人の自虐ギャグを、いじり倒して笑い者にするテレビ演出の予定調和が芸であることに気づかず、真に受けて現実と混濁し、クリスマスは一人ですと公言する女はいじって良しと捉えて安易に軽口を叩いているならば、その勘違いといい、真に受ける素直さといい、おまえの幼稚な認識、吐き気がするほど安い。安いおまえにいじられるほど、私の信念は安くない。しかしいじられている以上、まだまだ安いのだろうから、上等だ、誓って精進する。私は一人黙々と、自力でがんばる。おまえらもがんばれ。どうせいじるなら、この私が抱腹絶倒した後、全面降伏するようなセンスの良い罵倒を浴びせてみろ。それができないなら、面を洗って出直して来い」

 と、このように懇々と率直な意見を放出する私を前に、今度は「またまた」サイドが隠れキリシタンのごとく黙り、私の目の届かない穴蔵に集っては「ほら、あんなに怒ったっていうことは、やっぱり図星なんだ」「結局、寂しいんだ」「むきになっちゃって、大人気ない」と正真正銘の影口を叩く。

 この一向に噛み合わない認識の差異を存分に味わうあたりもまた、毎クリスマスシーズンから年末にかけての風物詩である。

孤独とはなにか

 時期を限定することなく、先の予定を約束で埋めることなく、今日の行動を事情と感情に任せて今日決めがちな私の毎日は、いつだって、その場しのぎ、その日暮らしで、自由だが孤独だ。

 孤独と言ってしまうと、一人ぼっちで寂しい、ネガティブな状況を想像する人もいるかもしれないが、孤独はれっきとした人間のデフォルトである。大好きな友人100人とともに過しても、それが楽しくとも、つまらなくとも、自分という人間は常に平等に孤独として存在し続ける。愛する人とセックスでつながったくらいでは、二人の個体は溶解しない。個としてぶつかり合うのみだ。愛し合う男女の接合として、新たなる命が誕生するシステム自体が、男女それぞれの個体の孤独を浮き彫りにする。

 人は孤独として増殖する。父の精子と母の卵子によって芽吹いた命も、羊水の中で育まれる期間は孤独である。母や助産婦の力を借りたとしても、双子以上の多胎児であっても、新生児が世に現れる際には未知のトンネルを一人で通過する。死ぬ時もまた、誰に看取られようとも、閉じる目は己一人のものだ。

 人は本来の「絶対」の意味合いにおいて、絶対的な孤独として生まれ、孤独として死ぬ。だから他者が愛おしい。自分を思い、人を思う人道において、絶対に同化できないからこそ自他の距離感を慈しみ、強く手をつなぎ合い、離さないようにぎゅっと力を込める活動を、愛と呼ぶ。

 孤独は、愛を思い、信じる、ポジティブなエネルギーによって研ぎすまされる感性を育む羊水である。一人で過ごす日々が寂しいこともある。ゆえに人の愛と温もりに感謝する。寂しさを忌み嫌い、熱狂的に目先の暇つぶしにかまけて孤独を排除、または消費しているようでは、孤独に反射してようやく正体する愛と温もりの実像を正しく掴むことはできない。

 孤独とは愛の発露だ。その愛が生涯永続しようがしまいが、恋の刹那であろうが、愛の発露を証明するものが孤独であることに変わりはない。愛しいから悲しく、握り合う手の力が強いほど寂しく、それでも信じる強さを慈しむ。こんなにも豊かな情感を味わえる孤独こそを慈しみ、人間としての情感を堪能する私の日々はいつだって自由であり、豊かだ。

■林 永子(はやし・ながこ)/1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、MVを中心とした映像カルチャーを支援するべく執筆活動やイベントプロデュースを開始。現在はライター、コラムニスト、イベントオーガナイザー、司会として活動中。

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林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。