
笠井爾示『東京の恋人』玄光社より(出典:amazon)
ヌード写真を見る時は、いつも、被写体の【本人性】に着目している。
一言でヌード写真といっても、性的好奇心を刺激するポルノ表現から、恋人同士が秘密裏に共有するプライベート写真まで、種類は様々だ。裸体が現出するからといって、すべてのヌード写真が【性】を意図するとは限らない。アイデンティティを誇示する【生】の芸術表現、社会と【性】の関わりに対する問題提起、人物・文化・風俗の記録、記念の妊婦ヌード等、公私にわたる用途は幅広い。
作品・コンテンツ表現の方向性としては、与えられたテーマを被写体が擬える【演劇的手法】と、被写体のあるがままの姿を記録する【ドキュメンタリー】とに二分される。と、断言するのはいささか極端で、被写体のあるがままの裸体をうつすヌード写真の場合、ドキュメンタリーとしての【本人性】と、ポーズや表情を形成する演劇性が同居しているケースが散見される。
その【本人性】は、裸体(肉体)のみを指して成立するものではない。写真にうつる裸体は、内面性(被写体個人の意志、思考、感情、欲望、情緒等)を伴って初めて、【本人性】を獲得する。
心身の同一性
いわゆるエロ本や性消費を目的としたアダルトコンテンツには、不特定多数の閲覧者の性欲・性意識を刺激し、自慰介助を促すための【記号】(表情、ポーズ、シチュエーション、ジャンル分け、小道具等)が投影されている。
その【記号】が先に立ち、被写体の内面性を不要としたうえで、裸体の提供および記号化を行った場合。写真の裸体は、【記号】に所属する。裸体そのものの肉体的所有者が、被写体本人であることは間違いない。が、内面性を伴わない裸体は、【記号】の傀儡であり、実質上、ヌードとポーズを提供するだけの代替え可能なマネキンと変わらない。
また、時に、「一糸まとわぬ裸体を提供している被写体が、ヌードという着ぐるみをガチガチに着込んでいるように見える」、不自然としか言いようのない写真と遭遇することがある。この人は、おそらく「脱ぎたくて脱いでいるわけではない」。そう想像させるに足る違和感は、自己の外面の裸体に定着しているものが、自己の内面性から滲み出る所有エネルギーではなく、自己外の【記号】である齟齬より発生する。
本来、心身は協力して統合を目指す関係にある。ところが、【記号】の介入により、心身が乖離し、外面の裸体のみが【記号】に吸収されてしまった。内面は、本体の奥底で置いてきぼりを食った。結果、写真には、肉体的本人性と内的本人不在性が同居する、歪な裸体がうつる。
その写真は、大前提として【本人性】を不要としていたはずだった。が、成果物には、被写体のありのままの【本人性の欠落】が、皮肉かつ正直に現出した。かくして、被写体本人の【心身の同一性】が為されない性的なコンテンツは、それそのものによって心身を分断される人間のドキュメンタリー記録としてのサブスタンスを獲得。概ね性行為より命を授かる人間が、性の記号化によって【本人性】を軽視されるという不可解な状況が、性消費情報の一部として社会に公開されていく。
他方、自らの意志でカメラの前に立つと決め、プライドをもってヌード表現を行う者は、【心身の同一性】を保持している。被写体それぞれには「ヌード撮影に赴く意図・目的・欲望」が個別にあるが、性的な表現を追求したい者は、記号化にも応じながら、自身の身体能力やリビドーを伴う表現力を発揮するだろう。その心身(意思と目的と欲望と身体)の結びつきが強ければ、容易に【記号】に引き裂かれることもない。かえって【記号】を利用し、多くの閲覧者を喜ばせるサービス精神を発揮することも可能と想像する。
中には、演劇やモデルのプロとして、【本人性】など一寸たりとも感じさせない、完璧なる【記号】の傀儡を演じきることに矜持を持つ者もいる。【性】ではなく、【生】の開放感を裸体に求める愛好者もいる。いずれもヌード写真と向き合う姿勢は様々だが、自己決定のうえで撮影に赴き、自分のやりたいことと身体表現をブレなく合致させている点に共通項がある。
つまり【心身の同一性】を保持する被写体の裸体には、自分の選択意志を尊重し、自己を肯定的に扱う【本人性】が投影されている。裸体はもちろん、本人に所属する。ともすれば【心身の同一性】を保つヌード表現は、自らの【性】を含めた【生】を誇り、尊び、肯定する、人間賛歌以外の何ものでもない。
【本人性】のエロス
以上は、写真家・笠井爾示氏が今年5月に刊行した『東京の恋人』(玄光社)を鑑賞している最中に浮かんだ思案である。本書は、2011年以降に笠井氏が撮影したプライベート写真の中から、約380点を厳選し、一冊にまとめた写真集だ。そこには、有名女優やモデルから一般の友人知人まで、約60名もの女性が登場。それぞれに親密な表情や赤裸々なヌードを惜しげもなく披露している。
この『東京の恋人』には、内的本人不在のマネキンが一人も出てこない。随所に見受けるエロティックな描写は、【記号】の演出ではなく、彼女たちと笠井氏が過ごす日常の記録である。日常らしくささやかで生々しく、撮影者と被写体の不自然な距離感もない、自然体の【本人性】が写真には現れる。その恋人や友人として相手を愛おしく思いあっている表情・表現の臨場感には、「実際の親密な関係性」を想像させる現実味がある。
そもそも笠井氏は、被写体の【本人性】に寄り添い、その魅力を引き出す写真家だ。ポートレートもヌードも、男女も問わず、被写体の表情の端々に、眼光の潤いに、ふとした佇まいに、本人の情緒が漏れ出る。その瞬間を切り取った写真には、目に見える姿形以上のリアリティが付与される。
被写体の内的エネルギーが、笠井氏の構えるカメラに吸い寄せられ、自律的に現出したのか。笠井氏が、カメラのファインダー越しに【本人性】を掴み、裸体のうえに引き摺り出し、激写したのか。撮影者と被写体の両者がカメラを介してエネルギーを交換し合い、お互いの深部を弄り合う、そんなセックスさながらの臨場感を彷彿とさせる笠井写真には、「エロい」「生々しい」「艶かしい」等の感想が、日々寄せられる。無論、エロいのは【記号】ではない。撮る者と撮られる者の【生】のエネルギーの躍動感が、露になるからエロいのだ。
が、『東京の恋人』はもっと穏やかな、同じ場所と時間に寄り添った者同士が共有する体温の記憶のような、じわっとした温もりや光の印象が残る。彼女たちの自然な振る舞いや間合いを見るに、みな、カメラの前に立つことを心身ともに喜び、歓迎していると感じる。登場する60名全員にインタビューしたわけではないが、みな、撮影の瞬間を、とても愛おしい時間として親密に共有し、讃えているように見える。そして、日常の【性】を元気に自己受容している。【性】を含めた【生】を自ら尊ぶ。その健康な肯定感を前に、この世のものとは思い難いような多幸感を味わい、当方は柄にもなく、少し泣いてしまった。
日常とプライベート写真
本書ならではの親密さの秘訣は、「すべてのカットは、のちに1冊の写真集としてまとめるために撮ったわけではなかった」という成り立ちにある。
笠井氏は、仕事以外の時間もプライベート写真を撮っている。曰く、写真馬鹿である。いつも、どこへ行くにも、首からカメラをぶら下げて、ふと目についた建物、路地裏に咲く花、すれ違う人々等、日々の光景を、日記を綴るように記録する。そして、東京の街で、路上で、ラブホテルの一室で、女性と密に向き合い、ヌードや性的な表現を含めた写真を撮る。それが笠井氏の日常だ。
『東京の恋人』は、このプライベート写真の中から厳選した作品をまとめた1冊だ。撮影当初は、作品展示や出版化といった後々の目的はなく、その日、その時の瞬間の記録そのものが、撮影の目的だったようだ。女性たちとのフォトセッションは、仕事とは一線を画した作品を共同創作し、お互いの表現力を追求する向きがあるのだろう。もっとラフに、瞬発力を競い合うインプロビゼーションライブを楽しむようなひと時もあると想像する。よりシンプルに、「撮りたい男」と「撮られたい女」が、ホテルの一室にて、周囲の目を気にすることなく撮影およびその他諸々に没頭しているとも考えられる。これ以上は、プライベートだからという理由につき、詮索しないことにする。
これらのプライベート写真が初めて公開されたのは、現在より遡ること数年前のSNS上だった。一般ユーザーによる写真投稿の流行を受けて、笠井氏も、撮りためた写真をInstagram等で公開。瞬く間に多数のフォロワーを獲得した(現在も更新中)。
当方もフォローしているが、当初はタイムラインに他のアカウントが投稿する子供の運動会やランチのラーメンの写真に紛れて、笠井氏が撮った女性たちの艶かしい写真が流れてくるので、不意をつかれてどきりとしたものだ。一般人のプライベート写真と比較して、写真家のそれにはプロの品質や作家性が現れる。よって良い意味で目を引くのはもちろんのこと、公共空間で「被写体のプライバシー(ヌードや下着姿等)が公開されている」という状況は、とても目立つ。
SNSの公開および写真集出版にあたり、笠井氏は、当然ながら被写体本人および関係各位の許諾を得ている。が、そもそも裸体は【私】として守られるプライバシーであり、写真表現として【公】を目指す際には倫理を問われるヌードと、ラーメンを、同列に扱うわけにはいかない。しかし、だ。恋人たちにとっては、お互いのヌードも一緒に食べるラーメンも、愛おしい日常の一部であることに相違はない。
恋人のいる視点
このInstagramが出版社(玄光社)の目に止まり、昨年、同社の編集者が「1冊の写真集としてまとめてみないか」と笠井氏に声をかけた。かくして初めて出版計画が立ち上がり、本年、発売の機を迎えるに至る。ちなみに『東京の恋人』というタイトルを命名したのも、同編集者だそうだ。
改めて書籍化された『東京の恋人』を閲覧してみると、確かに、カメラに目線を送る彼女たちの瞳には、恋人を見つめる時の熱や潤いが現出している。友人同士のフレンドリーな表情も多数収録されてはいるが、恋人にしか見せないような密着表現も散見される。また、2人きりの室内での女性のちょっと油断したような下着姿や着替え途中の後ろ姿は、親しい間柄だからこそ目にする、くすぐったいような日常の光景である。
写真の成り立ちから察するに、本書には、笠井氏と被写体の実際の関係性が投影されやすい。と、いうことは、彼女たちは、笠井氏の実際の恋人なのだろうか。いや、女性たちの中には、女優やモデルといった表現のプロがいる。よって、豊かな感情表現や優れた自己アピール力を遺憾なく発揮し、好きな人に見せたい表情を演劇的に再現したとも考えられる。その好きな人が笠井氏なら、ドキュメンタリーとなる。無論、どちらか決める必要はない。笠井氏が向き合ったのは手法ではなく、被写体本人であり、60人いれば60通りの関係性と方法論が生まれるものだ。
また、第三者の目線としては、カップルの過ごすホテルに笠井氏が潜入し、女性のみを撮影した可能性も考えられる。視点の置き所を想像し始めるとキリがない。様々な解釈を想像させる『東京の恋人』は、笠井氏本人がタイトルおよび定義を決めていないからこそ、解釈の幅が広がる。閲覧者は、被写体にかつての恋人の面影を見たり、カップルの日常空間に既視感を覚えたり。自分の経験と写真の光景を重ね合わさずにはいられない。
そして、多くの人々が「自分(撮影者視点)だけが、今、見ている彼女のヌード」という第一人称を共有するうちに、本書の写真の数々は「誰もがよく知る、恋人と過ごす日常の光景」の第三人称の広がりをもって共感力を高めていくのだ。
肯定感の渇望

笠井爾示『東京の恋人』玄光社より(出典:amazon)
ヌードやエロスを日常的な近距離感のうちに捕らえる本書を見ているうちに、本来、セックスや愛撫やハグとは、【記号】とはもっとも縁遠い、プライベートな近距離感覚を共有する愛情活動だったと思い返す。忘れていたわけではない。が、社会に溢れる性的なコンテンツに付随する【記号】を甘受し続けた結果、性表現と日常性を分断する思考傾向に陥っていたのではないかと自認する。
先にも書いたが、概ねセックスより生命を与えられる人間にとって、【性】と【生】は、切り離せない存在である。【性】は命の根源であると同時に、欲望であり、暴力にもなる事実より、社会生活ではマナーと管理能力が問われる。その暴力性や、人権および人間の自尊心を蔑ろにする【性】のネガティブな在り方を投影する情報が、実社会には蔓延する。
当方の本書の感想である「この世のものとは思えない多幸感」とは、ゴミも不幸も悲しみも混在する現実の重力を伴わない、【性】の健康な温もり、優しいポジティビティを指す。それが「この世にある」幸福に、かえって非現実的な浮遊感を覚える。なにしろ本書には、「この世のものであって欲しい」と渇望していた【性】と自己の肯定関係が、全編に渡って描かれているのだ。
『東京の恋人』たちに癒された当方は、被写体の自己決定権を蔑ろにするヌードや【性】のネガティビティに、自分で思っている以上に傷ついているのかもしれない。ヌード写真を見て、いの一番に被写体の【本人性】が損なわれていないかと注目するのも、【本人性】を蔑ろにする【性】の在り方が、多くの人々の自己肯定感情や自尊心を損なうきっかけとして実働してきたからだ。
【性】のポジティビティよりも、ネガティビティを公的に見かける頻度が高い印象を受けるのは、ポジの方は私的な範囲で重宝されている、クローズドなプライベート情報であり、ゆえに公然と提示されないからかもしれない。そうか、なるほど、笠井氏が行なっているのは、プライベート写真を作品として公開するという写真家としてのアクションを通じ、私的で幸福な【性】のポジティビティを公的な場に投入し、増やしていこうという活動ではないだろうか。
【性】のポジコンテンツというと、セックスに奔放な人々の虚構的な陽気さや、情緒のかけらも感じられない下品な下ネタのような、わざとらしさを想像してしまうが、日常の【性】はもっとささやかで、恥ずかしがったり、ドキドキしたりする、可愛らしい側面を持つ。猛々しい日も、無論ある。人間の【性】なのだから、いやらしいのが常態だ。その日常的な記録にうつるヌード写真が、公的空間に放たれると、【性】のポジティビティかつ身近な日常性の幸福が補強される。それらは、【性】のネガティビティと記号化の氾濫に、極めて健やかに、笑顔でアンチテーゼを示すシンボルとしても機能する。
つまり、『東京の恋人』とは、非現実的とさえ思えるほどの多幸感が、現実のものであることを証明するドキュメンタリーである。脚色や編集上の意図はあろうとも、存在価値としてはドキュメンタリーであることに意義がある。笠井氏は、「エロい写真を撮らせたら当代一」の写真家だが、彼の【性】は【生】と同義だ。撮影を通じて、エロスを含めた人間の尊厳を尊重し、肯定する。そんな笠井氏のコミュニケーション自体が、【性】と【生】の近距離性によって成り立つからこそ、エロスの説得力が倍増するのだ。
しつこいようだが、人間は概ねセックスから誕生する。自分の心身はもちろん、他者の心身も自分同様に、丁寧に受容し、慈しむのが人道だ。その当たり前の道理を、我々は忘れるわけにはいかない。清々しくもかわいらしく、とても自然にいやらしい女性たちの記録を、そこに漂う肯定感を、ぜひ、多くの方々に味わっていただきたい。
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【MC】
林永子(映像ライター/コラムニスト) @snacknagako
【ゲスト】
笠井爾示(写真家) @kasaichikashi
川上奈々美(AV女優) @nanamikawakami