病院に行くのも難儀であったが、Dを処方してもらったクリニックになんとか戻り、出血や痛みが治まらず生活できないことを訴えると、経腟エコー検査になった。卵巣が腫れているとのことだったが驚きはなかった。
もともと卵巣は腫れやすい臓器で水分が溜まっただけでも容易に腫れるらしい。そしてエコーだけでは、その腫れた卵巣の中身が血なのか水分なのかはわからない。夢子は女性科に定期的に検査に通うようになって10年以上経つが、卵巣が腫れたことなら今までに何度もあった。ピルを休止しDに変えたせいで排卵(と出血)が起きたから、腫れてるのだ。こんなに痛みがあるんだし、そりゃ卵巣のひとつやふたつ腫れるだろう、と考えた。
医師はこう言った。
「チョコレート嚢胞です。Rを使いましょう。」
ロンドンよりも濃い霧に包まれて朦朧としていた夢子の意識にとって、その言葉には電気ショックのような効果があった。
(卵巣が腫れてるというだけで『チョコ』と決まったわけじゃない。しかもRですって!? ピルの認可で過去の遺物になったかと思っていたのに、まだ現役だったのか! )
10年の時を経てもRを勧められる。夢子にとっては同じ悪夢に何度もうなされる感覚に似ていた。Rは使いたくないしそもそも俺には不要である可能性が高いと、これまでの経験から夢子は思った。
うつへの影響が不安…。
ピルが認可される前、日本ではこのRを子宮内膜症女性に投与することが多かったそうな。Rはもともとガンに使われる薬で副作用が甚大だ。なのに子宮内膜症にも使われたのは、ピルをまず治療に用いる海外と違い、日本にはそれくらいしか薬がなかったから、らしい。
ピルもRも同じ効果を狙って投与される。目的は「排卵と月経を止める」ことだ。月経が止まれば出血も止まる。出血が子宮内膜症の症状を悪化させるのだから、その抑止は治療に効果的だ。そして内膜症そのものが完治するわけではない、という点でもピルとRは同様だ。
違いは、Rは卵巣のホルモン分泌を強制的に止めるがピルは卵巣のホルモン分泌を休ませる、という点だ。ピルは卵巣を妊娠しているような状態にする。卵巣を眠ったような状態にするので、排卵や月経を再開したければ問題なくできるし、かなり長期間使える薬である。これまで10年以上使用してきて、ピルの副作用を自覚したことは夢子にはなかった。
ピルと違い、Rは卵巣を閉経状態にする。そのため更年期障害の苦しさに似たさまざまな副作用が起こる。危険なので、一生のうち短い期間しか使わないほうがいい。
なかでも夢子が警戒したのは、うつや骨量低下の副作用だった。現役精神科患者の夢子にとっては、うつの副作用が起こってから対策したのでは遅い。うつの治療に苦労してきたのに、高確率でそれがひどくなる薬を使うのは、自分の体に対してあまりにも無責任だと夢子は思うから使いたくない。
骨量低下は、一度起こったら戻らないし一生に渡って影響が続く。老齢の女性が室内で転んで簡単に骨折するのは、閉経後の骨量低下のせいである。ひとり暮らしの夢子にとってもアパート内での転倒発、骨折経由、孤独死到着という旅路はいつ起こってもおかしくない。
ピルさえあれば解決するのに
歴史はくり返すという。過去にも卵巣が腫れているから「チョコレート嚢胞だしRを使って手術しなきゃダメだよ」と言われた。しかし、数週間後に別の病院で診てもらった時、卵巣はもう腫れていなかった。チョコではない、水分が溜まっていただけだろうと言われた。
不要で副作用の多い治療をあまりにも気軽に勧められた経験は今でもはっきり覚えていた。今後、卵巣ガンに発展する可能性が高いとなったら話は別かもしれない。けど卵巣が腫れたからといってRを投与するのは、気が早すぎるでしょ。
排卵と月経を抑制したいなら、Rというバズーカ砲並みの武器など必要ない。ピルで十分事足りる。
(ピルを処方してくれればすべてが解決するのに! ああ、年齢が高すぎるんでしたっけね! ああ~、はいはいはいはい!)
夢子は溜息をついた。