恋愛・セックス

残酷な初体験はセックス観をこじらせるか? 改ざんされた記憶

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 親友には「本当に覚えていないの!?」と驚かれたが、私が未だに一番驚いている。よくわからない、と言うか全くわからない。本当に覚えていないのだ。どれだけ私は「処女嫌い男」に抱かれるために必死だったのかと、当時の自分の首根っこを掴んで問いただしたい。気に入った男とはどうしてもヤりたい、という精神をその頃から持っていたのか。恐るべし14歳である。

 しかしながら真実の初体験の男に関しては、顔や年齢、シチュエーションも完全に記憶がない。地元の親友が言うにはGLAYのTAKURO似らしい。好みの範囲内の男で、少し安心したわ。……本当に少し。

 もしかしたらその男からよっぽど酷いことをされたのかもしれないし、よっぽど辛かったのかもしれないが、脳内でその事実自体が抹消されている。人間はどんなに悲しい出来事があっても自然と忘れて綺麗な思い出を強く残すように出来ている。そうでなければ生き残るのが困難な世の中だから、と聞いたことがある。それにしてもほんの少しの記憶もないなんて……私の脳は実に便利である。

愛された記憶よりも

 そんな初体験を経た今、私は男好きのセックス大好き女だ。とはいえ、相手の許容範囲は狭く、何の意味もないからっぽのセックスはしない。

 「サヨナライツカ」という辻仁成著の恋愛小説がある。日本に婚約者のいるエリート男性・豊が、謎の美女・沓子とタイ・バンコクで出会い、互いに惹かれ合い逢瀬を重ね、そして別れ、25年後に劇的な再会をするまでが描かれている。実写化もされた作品で、公開2日間で興行収入約1億3,000万円を記録し、公開1カ月で観客動員数100万人、興行収入10億円を突破した。

人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと
愛したことを思い出すヒトにわかれる 

私はきっと愛したことを思い出す

 これは何度も作品の中で読まれる詩であるが、私は男性に惹かれるたび、この詩がどうしても頭をよぎってしまう。

 私の年齢は愛について語るにはまだ早いが、きっともう幼くはない。死ぬ間際に愛されたことを思い出すのか、愛したことを思い出すのか。それには「女」としての生き方というものを問われている気がしてならない。

 愛されていなかったとしても、私は自らが愛し尽くせる相手とのセックスなら一生したい。女は愛されることが幸せだと世論が言うのなら、私は女ではないのかもしれない。

 一番長い間付き合った男とのセックスは、愛されることに溺れた、という表現がぴったりであった。何度も私の名前を呼ぶ彼の声に身体はいちいち反応し、荒々しい交わりの中で何度も何度も唇を塞がれ、その力強さにこのまま潰されてしまえたらどんなに気持ちいいだろうと思った。だが、私は時間が経つにつれて彼の愛情が大きすぎることに重さを感じて逃げ出した。幸せと思えたはずのセックスですら受け入れられなくなっていた。

 その男との別れを経て、たくさんの男と知り合った。たくさんのイイ男に抱かれた。

 しかし、あんなに愛されていることを全身で感じたセックスは今までにない。それでも私は、相手がどんな男だろうが「私が抱かれたいと思った男に抱かれる」ことのほうが幸せである。毎日愛された記憶の中の自分よりも、単なるセフレであろうと高い理想を求める。相手の男を死ぬほど愛したいと願っている自分が好きである。愛し尽くせる男を探している今が好きである。

 そんなことを言いつつも、姫始めの相手にこだわりすぎて2014年の私はまだ処女である。勿論お誘いはたくさんあるんだけど、新年は最高の男とのセックスから始まらないと……という強い意志がある。これも、今年も最高のセックスライフを送るため。

 私のお眼鏡に敵うであろう「我こそは!」という男性諸君、立候補待ってるわ。ただし、蜜柑様の目は肥えてるわよ。

 

asumodeusu

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アスモデウス蜜柑

好奇心旺盛な自他共に認める色欲の女帝。長年高級クラブに在籍し、様々な人脈を得る。飲み会を頻繁に企画し、様々な男女の架け橋になり人間観察をするのが趣味。そのため老若男女問わず恋愛相談を受けることが多い。趣味は映画鑑賞で週に3本は映画を見る。