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賛否両論ドラマ『明日、ママがいない』が含む“差別”とは真逆の優しさを読み取る

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『明日、ママがいない』公式HPより

『明日、ママがいない』公式HPより

『明日、ママがいない』

 芦田愛菜さん主演の『明日、ママがいない』(日本テレビ系、水曜22時~)がの初回が1月15日に放送されました。このドラマは放送後4日経った現時点でも、ネットの世界ではプチ炎上、現実の世界では某病院が「差別に満ちた内容だ」として日本テレビに放送中止を求める(『ママがいない:病院抗議に日テレ「愛情とは何か描いた」』毎日新聞・2014年1月16日)など、何かと話題です。そこで、番組ホームページにあった「放送終了後7日間無料配信」から、第一話を拝見しました。

「ポスト」という言葉に込められた意味

 びっくりしました。めちゃくちゃ面白いドラマじゃないですか!

 ドラマを見るより先に、「『赤ちゃんポスト』に残されていた主人公を『ポスト』というあだ名で呼ぶとは、けしからん」という主旨を含んだ上記病院の抗議のことを知ったために、てっきり「ポスト」とは、芦田愛菜さん演じる人物を貶めたり揶揄する時に使われる蔑称なのかと思い込んだまま、見始めたのでした。

 けれど、実際ドラマを見ると、「ポスト」という名前は、まったく逆の意味合いで使われており、正直、「これに、なぜ批判が寄せられるのだろう……?」とポカーンとしてしまったほどです。

 このドラマ内で使われる「ポスト」という言葉はエンパワーメントの言葉だったのです。『明日、ママがいない』の「ポスト」という主人公のあだ名には、たとえいろんな事情から血のつながった「親」と暮らせなくても、そういう事情も含めたありのままの自分に誇りと自信をもって、将来は幸せになろう! というメッセージが込められていると私は思い、ドラマ製作者の意図は、「差別」とは真逆のところにあるとも感じました。

 特に、児童養護施設に暮らす少女たちがお互いのあだ名を仲良く紹介し合うシーン。ピアノが上手だから「ピア美」(桜田ひより)はまだ普通だとしても、家が貧乏だから「ボンビ」(渡邉このみ)、赤ちゃんポストにいたから「ポスト」(芦田愛菜)、など、彼女たちがあっけらかんと紹介するあだ名はブラック・ユーモアに満ちたものばかりです。養護施設で同室の気のおけない仲間同士が、子猫のように楽しそうにじゃれ合いながら発することで、ブラック・ユーモアの効果倍増で、見ていて痛快でした。

 面倒見も頭も良くていい奴で、仲間から信頼されているポスト。仲間が彼女を「ポスト」と呼ぶ時、その響きには、けして侮蔑のトーンは含まれていませんし、仲間からそう呼ばれることを、ポストも嫌悪していません。むしろ、あだ名が「ポスト」だと知ったもうひとりの主人公(後のドンキ・鈴木梨央)が「ごめん」と謝った時こそ、ポストは嫌悪の表情を浮かべ、主人公にこう言います。

「かわいそうだと思った? かわいそうだと思うほうが、かわいそう」

 この言葉からは、ポストの気持ちを一番傷つけるのは、「『赤ちゃんポスト』に捨てられていたから『ポスト』ですって? なんてかわいそうなの!」というエセヒューマニズムだということが伺えます。

 実の母親が誰なのかわからないポスト。

「私だって、目の前に親がいたら、自分から捨ててやりたい。でも捨てる親なんていない。だから私は名前を捨てた。唯一、親が残したのがそれだったから。親からもらった名前なんて、もういらない」と、自身が「ポスト」と名乗るようになった経緯を話します。

 重要なのは、他人ではなく、ポストが自らの意思で、意図をもって「ポスト」と名乗っていることだと思います。「私は確かに親を知らない。けど、その事実は私という人間を損なわない。ポストに残された過去も含めて、私はありのままの自分に誇りをもつ。だから、私はポストと名乗る」とポストが言っているようです。このような意図のもと使われる限り、「ポスト」という一見ネガティブな呼び名は、一転してポジティブな効果をもたらすと思います。

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